2010年5月31日月曜日

2010年4月24日土曜日

弔鐘

留保なき贈与と記憶

生命が全うされる事は自然のサイクル

こんこんと湧き出る情動の主成分は涙
このかなしみの濃度は、いつになったら希釈されるのかしら
いつになれば、うしなう、が

うしなった

になるのかしら

神々しいまでに白く輝く、花のかぐわしさ包まれて旅立った彼女の後には
忘れ物のように不在が残され
あたしは涙で侵食された現実に、ひとり立ちすくむ

2009年3月7日土曜日

パリ日記


パリにいた先週をレトロスペクティヴに振り返ってみます。

2月28日 早朝4時 パリ着
成田からのフライト中に読んでいたのは横光利一の『欧州紀行』。船で東南アジアを経由して欧州に向かっていた時代に比べれば、12時間なんてあっという間です。濃霧が立ち込めるシャルル・ドゴール空港からタクシーで滞在予定であるカルチェラタンのホテルに向かう。夜勤の兄ちゃんを起してホテルに荷物を預け、とりあえず営業していたセーヌ河ほとりのカフェで明るくなるのを待つ。なかなか明るくならないからワインはどんどん進む。濃霧に遮られていた太陽が弱弱しく自己主張を始めたのは朝の7時半。機内ではぐっすり眠れたしワインも飲んだしクロッグムッシュは胃に重たく、テンション高いまま、カフェの真向かいにあるノートルダム聖堂の朝のミサへ向かう。荘厳な朝の祈りと、空間に反響するパイプオルガンの透明な音色にしばし酔う。アメリカ人にフランスで道を聞かれたので、大体の位置を英語で返す。セーヌ川を朝焼けの中ほてほて歩いているうちにルーブル美術館が見えてきたので、とりあえず向かう。朝一だったので比較的すいていて、お目当てのドラクロアをじっくりと見る。ああ、この血なまぐささがよいのよね。時差ぼけも手伝い、凄い美術品をどひゃっと凄い数にわたり収容しているこの美術館に、感性がいったん麻痺してしまう。美しいものに対する感覚が飽和点に達し、凄さを認識できずにただ感覚でその素晴らしさを享受する状態、とでも言いましょうか。壮絶なる感覚的な美のインプットに脳がフリーズしてしまったような。

to be continued...

2009年3月4日水曜日

from Paris

I tend to write this blog as my writing experiment, but writing my blog as a diary seems to be okay since the blog itself stands for a personal diary.

I stayed in Paris for 4 days. I stayed in Latin Qarter. Staying there gave me a full of excitement. I walked the same street where Foucault, Deleuze, Guattarri, and many other philosophical idles walked! With sudden urges for re-reading Deleuze, I bought my secound "Anti-Oedipus" last night. The movie theatre across from my hotel has a "Godart Special." I enjoyed "La Chionise" which is my favorite.

To be continued...

2009年2月17日火曜日

不良債権・身体と暗喩・モチーフ

皮膚にびしびしと直撃する、痛い霰が降りしきる、暴風雪の或る日曜日。

首に激痛が走り、肩がセメントに固められたように動かなくなってしまいました。くるりと首を回そうとすれども、肩に走る電気質な痛みが身体を貫く。人間工学的に不自然な姿勢で日々デスクに張り付く労働する身体からの異議申し立てか。まるで油の切れた金属人形がぎしぎしとぎこちない音を立てながら非連続的な動きを反復しているかのような、不自然な動きしか身体が許してくれない。それともクレジットの焦げ付きと累積する借金が目には見えない不良債権と化して肩にまとわり付き、首が回らないという暗喩的乃至物理的状況を齎しているのか。生活を維持する為に必要な物資の買取価格が近年の物価高騰に呷られて、労働する身体をメインテインするために必要な生活を維持する為に必要な物資の購入価格のバランスが崩れているだけじゃない。

それとも、いとも簡単に液体質になってしまいそうな身体が、無言でrigidなサボタージュを行っているのか。無数の人々が行きかう雑踏の中、なつかしいあのひとに背後から呼び止められたとしても、たとえその声がやわらかくあたしの記憶を攪拌し現在をあまく掻き乱すとしても、首が回らないから、振り返らなくても良いように。

「首が回らないのです」
肩は塗り壁のように硬く、優雅な扇風機の様にくるくると自在に動くはずの首は
まるで脊髄に紐付けされたかのように固定されている。
うす緑色のカーテンに囲まれた診療室内に陰鬱に響く、割れたスピーカーから流れでる有線放送の歌謡曲が耳障りだ。
「いつからですか?」
しろいポロシャツに身を包んだ整体士が肩に触れながらそう聞く。
やわらかい指が力強く、ツンドラの大地のように固まった皮膚にのめり込む。
「そうですね、大体、8年前ぐらいから」
「8年前から、首が回らないのですか?」
数字が象徴する直接性に驚いたのか整体士の指は、先ほどよりも真剣な指使いで肩先を押し始める。背中の筋肉に沿って、体温が、指が、手のひらが動いていく。凝り固まり冷たくなった背中が整体士の手のひらで、暖められていく。骨の固さにに寄り添うようにして硬直した筋肉が、ほぐれていく。骨の間に刻み込まれた緊張が、暖められた体温で溶けていく。

「そうなんです、8年前から首が回らなくて、振り返ることができなくなってしまったんです。」
整体士は無言で手のひらを背中に乗せる。
少しの圧力と熱い体温が、手のひらから皮膚に伝わる。
凝り固まり冷たくなった首筋にすこしだけ体温が戻りはじめる。他者からの体温を確認する。浅かった呼吸が深くなりはじめる。鼓動は規則的にアレグロの速さに、高まる。麻痺していた触覚が鋭敏さを取り戻し、背にかかる手のひらの圧力や温度を貪欲に、求める。

フィジカルな記憶はフィジカルな喚起を促し、フィジカルな体温はフィジカルなリアクションで、
感覚的乃至記憶的時空系列を拡散するとさ。ね、アンリ(ベルグソン)さん?

2009年1月31日土曜日

探し物がございまして、

歩いて歩いて探したのだけれど見当たらなかったので、
ジェット気流の力を借りて久しぶりに遠征してまいりました。

文明の利器に乗せられて、天候調査中で離陸を見合わせている機内から見る、楕円型に切り取られた空は真っ白の、横殴りの猛吹雪だというのに、客室乗務員はまっさらな笑顔で、酸素マスクの説明を実演をもって演出する。感情労働者に課せられた危機管理はあまりにもシュールリアリスティック。

でもよいのだ。雲の下がいくら猛吹雪であってもどしゃぶりの雨であっても、
雲のうえはいつも、晴れているから、あたしはあなたと会うことができる。
on the planeで発見してしまった、plane of immanence。

蜂蜜を注ぎこんだかのように、太陽の光が雲間をとろりとした金色に染め上げている。 (だって雲のうえはいつでも晴れているもの)。雲の上で太陽は、誰にも邪魔されること無く其の儘に、ひかりを雲の波の上に注ぎ続けている。 時は夕刻、もしくは朝。 空の上から世界を、鳥の目線で地上を見る。雲間を蜂蜜色の染め空の青さを際立たせる熱く甘い陽光は、海を越え山を越え、眼下に広がる海岸線の繊細な曲線美を明らかにする。瞬間触発される、エキサイトメントの香りは芳しい。

エキサイトメントの香り、
ねっとりと肌に絡みつく熱帯夜の湿気の中で、野生動物の首筋の香りと、どこからともなく漂う清涼な百合の花芯が震え匂い立つ。今も鼻腔の奥に甦る静謐な香りと、身体の奥をじわりと突き抜ける甘い感覚が、混じっていく。匂いが視覚を、視覚が匂いをそして記憶を。鼻腔の奥に呼び起こされるかぐわしさと身体の芯を突き抜けるリズムの余韻が、音楽を、身体中の細胞に波のように引き起し奏でる。雲の波間に溶けていく、断続的に降り注ぐ光のスペクトラムの鮮やかなリズムはやさしく甘く、細胞にしっとりと染みこんでいく。エキサイトメントの香りは理屈ぬきに感覚的刺激とともに客観的に記憶に残るから、記憶して記録したい。いつでも何処でもあの甘美なる感覚を現在に召喚できるように。かぐわしいあの人の香りをふと、記憶の中に鼻腔の奥に思い出す。未来過去今歴史的時空的リニアリティは吹き飛ぶ。鳥のように高らかに、現在を歌う。

エキサイトメントの香りにやられて、
未来過去今歴史的時空的リニアリティが飛んでしまって、
雲の波間に夢見ごこちで漂っていたら
現在の探し物を忘れてしまいました。

2009年1月12日月曜日

他者の不在について

他者とはなにか。

と考えるとあたしは、柄谷行人『探求I』の冒頭の一説を思い出す。

     われわれの言葉を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聴いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言葉では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない‥‥(「哲学探究」20)

言葉はルールやロジックによって成り立っており、「われわれの」言語を理解する為にはそれらにまつわる理論性や哲学を理解する必要がある。「われわれの」言語のルールやロジックが通用しない人々-「たとえば外国人」―は、理論・哲学を無効化し、「われわれの」言語を理解する「われわれ」の確固たる自信、あるいは’確実性’を失わせる、他者である。

「われわれ」とは誰か?
同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想を持つある集団であろうか。 たとえば日本語を母国語として、日本国憲法に定められた法というルールを守り、同じメディアが流す情報を共有し、同じ多国籍企業が営むショッピングモールで消費するから、「われわれ」は「われわれ」としての確実性を保ち共有し得るのか。そして共有された曖昧で胡乱な確実性のもとに「わたし」ではなく「われわれ」として存在できるかのような手ぬるい現実を享受できるのか。

同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想があるから、
「われわれ」の発話は他者にかならず伝わると、ナイーブに信じきることができるのか。

この言葉は伝わらないかもしれない、
しかし伝えたい、伝わればいい、
伝わらなければ、完全な暗渠。絶望。
だから命がけで、伝えたい。

他者、を想定し発話し、自己の発言に責任をとることが、
倫理的な他者との関係性の構築への第一歩。

ナルキッソスの泉に映し出された増殖し肥大する自己イメージの鏡地獄から抜け出し、永久運動を続けるエディパル三角運動の螺旋を断ち切って、他者に自己を投影し続け、閉じられたモノローグだけが虚しく続く、なんて、鬱。
他者がいるのに、存在しない。
他者を想定してコミュニケートし得ないなんて、酷く非倫理的。

でもね、

所謂主体性と呼ばれるものは社会的に浮かび上がってくるわけで、自分以外の人間・動物・植物・商品‥様々な事象との関係のウェッブによって 織り成される、関係性の変化によって常に変動していくダイナミズムそのものだ。(故に確固たるアイデンティティという代物は限定された言説で括弧付きにしか語りえない)。

例えばいい香りの風が吹けばがちがちだった身体は緩み、少しだけやさしくなれて、さっきまで大嫌いだった人をいとおしく思えるようになったり、逆に風が吹けば持病の痛風が狂おしいまでに痛み始めて(あたしは痛風もちではないけれど)、さっきまで大好きだった人につらく当たっちゃったり。フィジカルなコンディションによって、周りの事象の変化によって、人は刻一刻と変わりゆく。

毎瞬間毎瞬間、同じ自分に出会うことがない。
外延に存在しているかのように見える他者、が自分のなかにたくさんいる。

I love you, but because inexplicably I love you in you something more than you- the object petit a- I mutilate you (Lacan, Jacques, The Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis, p263, 1998)