2007年10月11日木曜日

Blog as the appratus of monologue?

いつもブログを書くたびに考える。
ネット空間で「書く」という作業は、自己完結型な独白なのであろうか?
それとも自分の思考に、あるレベルの客観性を与えるために必要な、
プラットフォームとして、ブログというネット上の空間を使用しているのか?

「書く」という作業は「読まれる」という行為を前提に行われ、
言葉を紡ぎだす主体は、読者=他者の存在を想定して書く。
ネット上に有象無象に存在している他者=読者を想定し、
自分の思考を言葉として具現化し、深化させること。

この意味でブログは或る意味、思考の客観性を保つ1つの装置となる。
なぜなら他者に読まれることを大前提として書かれるものだから。
お友達相手ではなく、ネット上に有象無象に存在する、
絶対的差異をもつ他者にむけて、放たれる言葉。

と、モノローグ装置としてブログを活用しても、たまにはいいでしょ(苦笑)

2007年9月21日金曜日

最近気になること

興味の対象は、分裂的に広がっていく。
最近のニュースで気になる対象を箇条書きにすると:

1.サブプライムローンの焦げ付きと金融バブル
→世界的に飛び火する金融危機。
貧困層の限られた資本力さえも巻き込み自滅する、
資本の無謀なドライヴ。
2.日本のパキスタン軍への給油活動、そして国連の「謝意」
→自民党総裁選へと向けた保守派の苦肉の策。
国連において権限を持たない国が、国連をコントロールする某国が行う、
泥沼の戦争支援をすることによって得る、反対勢力である民主党への牽制。
3.地球温暖化による永久凍土の溶解による大量のメタンガスの発生
→二酸化炭素の数十倍にもおよぶ温暖化ガスのemission。
温暖化が温暖化を生む、生命の危機。

2007年9月16日日曜日

before then

http://stop-rokkasho.org/read/before-then-j.html
Norma Fieldの詩を読んでいたら、 やっぱり音を聴きたくなりました。
http://stop-rokkasho.org/media/1/67_before-then.mp3

放射性廃棄物の再処理工場では、 原発が出す一年分の放射能を、
一日で放出する。
日本中の原発の廃棄物は、六ヶ所村に集められ処理される。
青森県六ヶ所村の海や空や大地や鳥や魚や花や人は、
垂れ流しのプルトニウムで汚染され放題。

あたしが大好きな、蜜がぎっしり詰まった林檎を 齧った瞬間、
ヒバクしてしまうってことかしら。

So what's gonna happen after all?

新聞のヘッドラインは無味乾燥に原発事故を報道する。
目に見えない放射能は、ひたひたと命を侵食する。

だから、想像するしかない。

あたしの呼吸と六ヶ所村の空はつながっている。
だけどメディアは、あたかも繋がっていないように、報道する。
過剰なセンティメントとは距離を置いたつもりなのに、 想像してしまう。
after allではなくbefore thenの可能性を。

過去日記その2

I shop therefore I am. 我買う故に我あり。 資本主義的デカルト型人生。

テレビの電源を入れるとコマーシャルが五月蝿い。
受動的に摂取する情報の、オートマティックな刷り込み。
これを買うとあなたは幸せになれますよ。
これを所有すると、ステキなライフスタイルが約束されます。
だから買ってね、にっこり。極上の、洗練された笑顔。
企業の欲望のメッセンジャー。
快楽原則=更なる資本の蓄積と富の集中。

CMには耳障りの良いコピー、手ぬるいBGM、
そして 旧共産圏の国営放送の主人公みたいな笑顔しか出てこない。
にっこり。幸福の徴しである笑顔。
笑顔イデオロギーは宣伝媒体を介して、日常に侵食してくる。
あたしにとってそれは余りにも健康的で人工的で、白々しく、空恐ろしい。

稀にアクシデントで、モールやデパートに迷い込んでしまう。
消費空間は至るところに待ち受けているから、回避不可能。
大量生産プラスティックとメイドイン搾取工場お洋服に包囲され、 膨大な量のモノと情報のインフレーションにくらくらと眩暈。 陳列された沢山の商品。倉庫での大量虐殺が約束されたモノ。 メディアと企業が手を組んで、技術的に生み出される流行。 虐殺を免れるか否かは、多国籍企業の戦略に依存している。 ダーウィン的淘汰。資本主義が形成する「自然」のなかで。 流行としての価値。

流行としてのハイテンポな情報更新。
「つまり・・・モノの価値=時間を奪い取ることである」      
『消費社会の神話と構造』ジャン・ボードリアール

2007年7月29日日曜日

rough-rough thesis

地球といのちの存亡をかけて、真のデモクラシーへの道は開かれつつある。本稿で私は、1990年代に世界中で起こったグローバルな抗議運動に焦点を当て、真のデモクラティック・プラキサスを検証する。反グローバリゼーション運動や、social justice movement、さらには民主主義支持運動と呼ばれる大きな流れは、激化する環境破壊や、終わりなき戦争、南北間の不平等発展や東西の対立を生み出しているグローバルに統合された(経済)システムに対する、民衆の大規模な異議申し立てであった。とりわけ重要なのは、1999年秋のシアトルでの、WTO官僚会議での抗議運動である。雑多な目的を持つ多様なグループが、真のデモクラシーへの共通な欲望のもと集結し、大規模な抗議活動を可能にした。この場において権力は中央集権化されることなく、力は人々に平面的に分散され、多種多様な目的を持つグループの異質性と単独性を保たれたまま、他のグループとの連結が可能になった。真のデモクラシーの実現に必要不可欠なこれらの要素を深化させ、シアトルでの運動でひときわ光彩を放つ、スターホークという環境活動家に焦点を当て、本稿はいのちの存亡をかけた、地球とのあらたな関係性の構築を提示する。

1.民主主義支持運動とはなにか
 A.ナオミ・クレインが言うところの"pro-democratic movement":define
 B.1999, Seattle; the shut down of WTO meeting
 C.the role of affinity groups:
 →環境活動家スターホークの役割
2.スターホークとは誰か
 A.歴史と背景
 B.地球=生命
 C.自然性=女性
3.環境危機とデモクラシー
 A.デモクラシーとは、なにか
 B.自然、マルティチュード、人々の力
 C.革命的契機としての環境危機

2007年5月17日木曜日

ひたひたと、深く

考えたい。知性が研ぎ澄まされて、思考がどこまでも深くなっていき、感覚の地平がどんどん広がっていく時間。ニューロンの過剰発火は脳に心地よいスリル。
おそらくあたしは、知的エクスタシー中毒。

考えることはあたしにとって、呼吸すると同じこと。日常生活の煩雑で凡庸な出来事の反復に支配されてしまうと、どうしても思考が浅くなる。呼吸が浅くなる。知覚できることのレンジもどんどん狭くなる。だからふと立ち止まって、深呼吸をすることが必要。注意深く世界を感じて、ひたひたと押し寄せてくる思考の深みにはまる。フランス語でいうところのアタンションかしら。

あたしを「あるべき労働者/消費者」の鋳型にはめ込もうとする見えない権力の力は、職場や因習的な人間関係のしがらみやメディアや商品を通じて日常生活に容赦なく入り込んでくる。資本の力に流されちゃいそうになる瞬間、あたしは立ち止まって考える。
深呼吸。内なる声に耳を澄まし、内なる力を喚起させるために。
そしてあたしに立ち戻る。
深く考えること。それは現体制に対する疑問と危機感を持つことにとって必要なことである。
なぜなら日常生活こそ社会変革の実践の場であり、革命へのバトルフィールドであるからだ。