2010年5月31日月曜日

2010年4月24日土曜日

弔鐘

留保なき贈与と記憶

生命が全うされる事は自然のサイクル

こんこんと湧き出る情動の主成分は涙
このかなしみの濃度は、いつになったら希釈されるのかしら
いつになれば、うしなう、が

うしなった

になるのかしら

神々しいまでに白く輝く、花のかぐわしさ包まれて旅立った彼女の後には
忘れ物のように不在が残され
あたしは涙で侵食された現実に、ひとり立ちすくむ

2009年3月7日土曜日

パリ日記


パリにいた先週をレトロスペクティヴに振り返ってみます。

2月28日 早朝4時 パリ着
成田からのフライト中に読んでいたのは横光利一の『欧州紀行』。船で東南アジアを経由して欧州に向かっていた時代に比べれば、12時間なんてあっという間です。濃霧が立ち込めるシャルル・ドゴール空港からタクシーで滞在予定であるカルチェラタンのホテルに向かう。夜勤の兄ちゃんを起してホテルに荷物を預け、とりあえず営業していたセーヌ河ほとりのカフェで明るくなるのを待つ。なかなか明るくならないからワインはどんどん進む。濃霧に遮られていた太陽が弱弱しく自己主張を始めたのは朝の7時半。機内ではぐっすり眠れたしワインも飲んだしクロッグムッシュは胃に重たく、テンション高いまま、カフェの真向かいにあるノートルダム聖堂の朝のミサへ向かう。荘厳な朝の祈りと、空間に反響するパイプオルガンの透明な音色にしばし酔う。アメリカ人にフランスで道を聞かれたので、大体の位置を英語で返す。セーヌ川を朝焼けの中ほてほて歩いているうちにルーブル美術館が見えてきたので、とりあえず向かう。朝一だったので比較的すいていて、お目当てのドラクロアをじっくりと見る。ああ、この血なまぐささがよいのよね。時差ぼけも手伝い、凄い美術品をどひゃっと凄い数にわたり収容しているこの美術館に、感性がいったん麻痺してしまう。美しいものに対する感覚が飽和点に達し、凄さを認識できずにただ感覚でその素晴らしさを享受する状態、とでも言いましょうか。壮絶なる感覚的な美のインプットに脳がフリーズしてしまったような。

to be continued...

2009年3月4日水曜日

from Paris

I tend to write this blog as my writing experiment, but writing my blog as a diary seems to be okay since the blog itself stands for a personal diary.

I stayed in Paris for 4 days. I stayed in Latin Qarter. Staying there gave me a full of excitement. I walked the same street where Foucault, Deleuze, Guattarri, and many other philosophical idles walked! With sudden urges for re-reading Deleuze, I bought my secound "Anti-Oedipus" last night. The movie theatre across from my hotel has a "Godart Special." I enjoyed "La Chionise" which is my favorite.

To be continued...

2009年2月17日火曜日

不良債権・身体と暗喩・モチーフ

皮膚にびしびしと直撃する、痛い霰が降りしきる、暴風雪の或る日曜日。

首に激痛が走り、肩がセメントに固められたように動かなくなってしまいました。くるりと首を回そうとすれども、肩に走る電気質な痛みが身体を貫く。人間工学的に不自然な姿勢で日々デスクに張り付く労働する身体からの異議申し立てか。まるで油の切れた金属人形がぎしぎしとぎこちない音を立てながら非連続的な動きを反復しているかのような、不自然な動きしか身体が許してくれない。それともクレジットの焦げ付きと累積する借金が目には見えない不良債権と化して肩にまとわり付き、首が回らないという暗喩的乃至物理的状況を齎しているのか。生活を維持する為に必要な物資の買取価格が近年の物価高騰に呷られて、労働する身体をメインテインするために必要な生活を維持する為に必要な物資の購入価格のバランスが崩れているだけじゃない。

それとも、いとも簡単に液体質になってしまいそうな身体が、無言でrigidなサボタージュを行っているのか。無数の人々が行きかう雑踏の中、なつかしいあのひとに背後から呼び止められたとしても、たとえその声がやわらかくあたしの記憶を攪拌し現在をあまく掻き乱すとしても、首が回らないから、振り返らなくても良いように。

「首が回らないのです」
肩は塗り壁のように硬く、優雅な扇風機の様にくるくると自在に動くはずの首は
まるで脊髄に紐付けされたかのように固定されている。
うす緑色のカーテンに囲まれた診療室内に陰鬱に響く、割れたスピーカーから流れでる有線放送の歌謡曲が耳障りだ。
「いつからですか?」
しろいポロシャツに身を包んだ整体士が肩に触れながらそう聞く。
やわらかい指が力強く、ツンドラの大地のように固まった皮膚にのめり込む。
「そうですね、大体、8年前ぐらいから」
「8年前から、首が回らないのですか?」
数字が象徴する直接性に驚いたのか整体士の指は、先ほどよりも真剣な指使いで肩先を押し始める。背中の筋肉に沿って、体温が、指が、手のひらが動いていく。凝り固まり冷たくなった背中が整体士の手のひらで、暖められていく。骨の固さにに寄り添うようにして硬直した筋肉が、ほぐれていく。骨の間に刻み込まれた緊張が、暖められた体温で溶けていく。

「そうなんです、8年前から首が回らなくて、振り返ることができなくなってしまったんです。」
整体士は無言で手のひらを背中に乗せる。
少しの圧力と熱い体温が、手のひらから皮膚に伝わる。
凝り固まり冷たくなった首筋にすこしだけ体温が戻りはじめる。他者からの体温を確認する。浅かった呼吸が深くなりはじめる。鼓動は規則的にアレグロの速さに、高まる。麻痺していた触覚が鋭敏さを取り戻し、背にかかる手のひらの圧力や温度を貪欲に、求める。

フィジカルな記憶はフィジカルな喚起を促し、フィジカルな体温はフィジカルなリアクションで、
感覚的乃至記憶的時空系列を拡散するとさ。ね、アンリ(ベルグソン)さん?

2009年1月31日土曜日

探し物がございまして、

歩いて歩いて探したのだけれど見当たらなかったので、
ジェット気流の力を借りて久しぶりに遠征してまいりました。

文明の利器に乗せられて、天候調査中で離陸を見合わせている機内から見る、楕円型に切り取られた空は真っ白の、横殴りの猛吹雪だというのに、客室乗務員はまっさらな笑顔で、酸素マスクの説明を実演をもって演出する。感情労働者に課せられた危機管理はあまりにもシュールリアリスティック。

でもよいのだ。雲の下がいくら猛吹雪であってもどしゃぶりの雨であっても、
雲のうえはいつも、晴れているから、あたしはあなたと会うことができる。
on the planeで発見してしまった、plane of immanence。

蜂蜜を注ぎこんだかのように、太陽の光が雲間をとろりとした金色に染め上げている。 (だって雲のうえはいつでも晴れているもの)。雲の上で太陽は、誰にも邪魔されること無く其の儘に、ひかりを雲の波の上に注ぎ続けている。 時は夕刻、もしくは朝。 空の上から世界を、鳥の目線で地上を見る。雲間を蜂蜜色の染め空の青さを際立たせる熱く甘い陽光は、海を越え山を越え、眼下に広がる海岸線の繊細な曲線美を明らかにする。瞬間触発される、エキサイトメントの香りは芳しい。

エキサイトメントの香り、
ねっとりと肌に絡みつく熱帯夜の湿気の中で、野生動物の首筋の香りと、どこからともなく漂う清涼な百合の花芯が震え匂い立つ。今も鼻腔の奥に甦る静謐な香りと、身体の奥をじわりと突き抜ける甘い感覚が、混じっていく。匂いが視覚を、視覚が匂いをそして記憶を。鼻腔の奥に呼び起こされるかぐわしさと身体の芯を突き抜けるリズムの余韻が、音楽を、身体中の細胞に波のように引き起し奏でる。雲の波間に溶けていく、断続的に降り注ぐ光のスペクトラムの鮮やかなリズムはやさしく甘く、細胞にしっとりと染みこんでいく。エキサイトメントの香りは理屈ぬきに感覚的刺激とともに客観的に記憶に残るから、記憶して記録したい。いつでも何処でもあの甘美なる感覚を現在に召喚できるように。かぐわしいあの人の香りをふと、記憶の中に鼻腔の奥に思い出す。未来過去今歴史的時空的リニアリティは吹き飛ぶ。鳥のように高らかに、現在を歌う。

エキサイトメントの香りにやられて、
未来過去今歴史的時空的リニアリティが飛んでしまって、
雲の波間に夢見ごこちで漂っていたら
現在の探し物を忘れてしまいました。

2009年1月12日月曜日

他者の不在について

他者とはなにか。

と考えるとあたしは、柄谷行人『探求I』の冒頭の一説を思い出す。

     われわれの言葉を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聴いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言葉では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない‥‥(「哲学探究」20)

言葉はルールやロジックによって成り立っており、「われわれの」言語を理解する為にはそれらにまつわる理論性や哲学を理解する必要がある。「われわれの」言語のルールやロジックが通用しない人々-「たとえば外国人」―は、理論・哲学を無効化し、「われわれの」言語を理解する「われわれ」の確固たる自信、あるいは’確実性’を失わせる、他者である。

「われわれ」とは誰か?
同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想を持つある集団であろうか。 たとえば日本語を母国語として、日本国憲法に定められた法というルールを守り、同じメディアが流す情報を共有し、同じ多国籍企業が営むショッピングモールで消費するから、「われわれ」は「われわれ」としての確実性を保ち共有し得るのか。そして共有された曖昧で胡乱な確実性のもとに「わたし」ではなく「われわれ」として存在できるかのような手ぬるい現実を享受できるのか。

同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想があるから、
「われわれ」の発話は他者にかならず伝わると、ナイーブに信じきることができるのか。

この言葉は伝わらないかもしれない、
しかし伝えたい、伝わればいい、
伝わらなければ、完全な暗渠。絶望。
だから命がけで、伝えたい。

他者、を想定し発話し、自己の発言に責任をとることが、
倫理的な他者との関係性の構築への第一歩。

ナルキッソスの泉に映し出された増殖し肥大する自己イメージの鏡地獄から抜け出し、永久運動を続けるエディパル三角運動の螺旋を断ち切って、他者に自己を投影し続け、閉じられたモノローグだけが虚しく続く、なんて、鬱。
他者がいるのに、存在しない。
他者を想定してコミュニケートし得ないなんて、酷く非倫理的。

でもね、

所謂主体性と呼ばれるものは社会的に浮かび上がってくるわけで、自分以外の人間・動物・植物・商品‥様々な事象との関係のウェッブによって 織り成される、関係性の変化によって常に変動していくダイナミズムそのものだ。(故に確固たるアイデンティティという代物は限定された言説で括弧付きにしか語りえない)。

例えばいい香りの風が吹けばがちがちだった身体は緩み、少しだけやさしくなれて、さっきまで大嫌いだった人をいとおしく思えるようになったり、逆に風が吹けば持病の痛風が狂おしいまでに痛み始めて(あたしは痛風もちではないけれど)、さっきまで大好きだった人につらく当たっちゃったり。フィジカルなコンディションによって、周りの事象の変化によって、人は刻一刻と変わりゆく。

毎瞬間毎瞬間、同じ自分に出会うことがない。
外延に存在しているかのように見える他者、が自分のなかにたくさんいる。

I love you, but because inexplicably I love you in you something more than you- the object petit a- I mutilate you (Lacan, Jacques, The Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis, p263, 1998)

2009年あけまして

からというもの、耳が脳がクラシックしか受け付けなくなっておりますが、
ことしもよろしくお願いいたします。

2008年後期頑張って様々なジャンルにチャレンジしてみたのですが、
やはり自分の脳が心地よいと感じる音しか耳には落とし込まれないようで、
自分勝手な淘汰?の末新年耳に優しかったのはクラッシックだったわけで、
やはりバルトークは秀逸、と感じております。

先日友人と話をしていて、ミシマユキオの話になりました。
「あたし、音楽が聴こえないんです」
という赤いコートをきた女と精神分析家の小説なのだけれど、
既存の解釈をたどれば、音楽はリビドーに回収されていくけれども、
(例えば音楽とオルガズム、兄との近親相姦的欲求など、鋏、の象徴)
フロイドシアターに必要不可欠な要素が立ち現れてくるから、
ミシマさんの『音楽』の解釈においては、あたしがフロイドに回収されていただけかも。
ううみゅ、もっと欲望に肯定的な解釈だってできたはず。既存の何某に囚われずに。
ユング的に読めば音楽、は集合的無意識からのメッセージじゃ。
2009年にもう一回読み直して、↑を敷衍しよう。
http://jp.youtube.com/watch?v=UHZt6ITdSto

2008年12月18日木曜日

出来事としての出会い

現在連続徹夜勤務18時間明けです。

久しぶりにドゥルーズさん+ガタリさんの著書を読みかえして、格好よくてたまらなくて興奮しすぎて徹夜明けなのに眠ることができない。大学時代に擦り切れるまで読んで、それは比喩的な表現ではなく実際背表紙がばらばらにほどけるまで耽読し、熱に浮かされたように論文を書いていたのはつい数年前。

運命の書物との出会いは人生における一つの、単独性に満ちた歓喜を喚起させる、出来事。
遡及的に過去は綴られるけれど、この書物との出会いを齎してくれた偶然・必然に改めて感謝。

”Will this all be in vain because suffering is eternal and revolutions do not survive their victory?But the success of a revolution resides only in itself, precisely in the vibrations, clinches, and openings it gave to men and women at the moment of its making and that composes in itself a monument that is always in the process of becoming, like those tumuli to which each new traveler adds a stone. The victory of a revolution is immanent and consists in the new bonds it installs between people, even if these bond last no longer than the revolution's fused material and quickly give way to division and betrayal."

Gilles Deleuze and Felix Guattari, What is Philosophy?

2008年11月22日土曜日

ひとりごと

無/意識的な他者からの攻撃を受けたあたしは、疲れたぼん。
コンプレックスの三角形から抜け出せないのかしら。
自らの優越性を感じる瞬間が欲しいのかしら。
沸々と煮えたぎるルサンチマンを隠そうとしても、透けて見えるから。

そんなにディフェンシヴにならなくても、大丈夫だから。
というか、自らのコンプレックスの内部で純正培養されたルサンチマンを
攻撃性に転化させあたしにぶつけられても困るのだけれど。

以上、どうでも良い瑣末な人間関係の軋轢のひとコマでした☆

2008年11月9日日曜日

ノスタルジアはいつでも

芳しく現在に匂い立つ。

Chrysantemum For you I am a chrysantemumSupernova, urgent star
Astera Compositae For you I'll be a dandeliona thousand flowerettes in the skyOr just a drop in the ocean
If you know my namedon't speak it outit holds a power - as before
Liliacea A lily of the valleya flower of saron
Helianthus annus For you I even be a sunflowerDo you hear my enlightening laughter?another reason to cut off an ear
You know my name, do you not?don't say itFor it's a sacred, immovable - frozen
Rosa, Anemone etNymphea alba I'll even be a waterlily,a marygold, a roseor a little thistle
Euphorbiaa blue dahlia, a black tulipthat's where opinions differthe scholars disagree
My name, should you know itremains unspeakableand it's spoken - malediction

The above text is stolen from Einsturzende Neubauten - Blume.

10年前に熱に浮かされたように聴いていた↑の意味が、10年後の今深く浸透するよ。

2008年11月3日月曜日

sur-realistically,

sur-から始まる言葉
(あたしが思いつくのはSurrealism:シュールリアリズム)
sur-は、超、とか、何かを越えるといった意味だけれど、

surpass, surface, surrender, surplus(value), surfing?, survey,
sur-から始まる言葉であたしが最近よく思いつくのは、SURCHARGE!

日本-ヨーロッパ間はサーチャージのみで6万円以上。比較的近いカナダでは航空運賃3万プラス燃油サーチャージ6万、って本体価格の2倍じゃないですか。アフリカやブラジルは10万以上ですか?かつてとあるアジア系航空会社のチケット成田LA往復3万円台で購入していたあたしにはショックが大きすぎます(でもマイルはきちんとつきました)。釜山行きのフェリーにもまんべんなく(比較的安価な)サーチャージがかかるし、この片田舎で先日珍しくデモを見かけたと思ったらトラック屋さんで、運送業にもサーチャージをと、テンション低めで繰り返しながら路上をぼそぼそと練り歩いていました。

ここ最近原油価格が比較的下がりつつあって、ガソリンその他諸々も安くなっているのにサーチャージは一向に下がらないの。あたしはナイーブに考えてしまいました。燃料の価格が目に見えるほどに下がるのだから、きっと原油価格にスペキュレイトされた燃油サーチャージも下がるかしらん、と。

でも結局はヘッジされて先物化された商品だものね。今の価格は過去に既に決められた価格であって、今即時的に触れている現実から見て過去によって定められている。そして今、即自的に触れいている現実はいまここ、をすり抜け未来を反映し、将来の価格を決めている。

例えばいま原油が急落していたとしても、この価格が燃油サーチャージに反映されるのは何年後かしら?現実の価格にタイムラグが生じるとしても、正確に予言できるアナリストがもしいたら信じてみてもいい。

何てsur-realisticなのかしらん、即時的ないま・ここ現実を越えた株のスペキュレーションという作業によって、来るべき未来のリアリティが即時的ないま、ここで価格設定されているとは。

もしどなたか勉強不足なあたしにヘッジ講義を与えてくれるのならば、大歓迎で抗議いたします☆

2008年11月2日日曜日

労働と内省、からの逃走

忙しいと書いて心を失うと読む。
記憶が確かであれば「忙」の漢字の左側って、こころを意味する部位だった気が、するの。

前日の疲労が沈殿する砂袋のように重たい身体を無理やりベッドから引き剥がして今日もおはようございます。睡眠から未だ再起動中の頭を働かせ、シャワーを浴びコーヒーを淹れて、簡単な朝食と共に朝刊にざっと眼を通す。ビジネス服に身を固め顔を作り(市場が要求する、社会人という労働者に必要不可欠な仮のアイデンティティを人為的に作り出す儀式)、今日も元気な振りをして、仕事へ行ってまいります。まだ眠たげな朝の風を頬に感じ、公共交通機関に揺られ、大量生産された社会人という労働者がひしめく朝のラッシュアワーに揉まれ、人ごみを掻き分け仕事場にたどり着く。
仕事はまだ始まっていないのに、こんなにも既に労働してしまっているよ、

そうして今日も時間に区切られた、特異であるとともに平均的である労働の一日が始まる。
‥そして終わる。明日の労働が始まる為に、今日の労働は終わらなければならないのだ。

今日も労働が終わりましたよお疲れ様、と同僚と繰り出すハッピーアワー。バーは同じように今日の労働を終えた紳士淑女労働者でひしめき合っています。その喧騒の中で同僚と、ピッチャーのビールを分かち合いながらボスの愚痴や新しいプロジェクトの話題で盛り上がるかもしれません。

‥ビールの泡にまで、終わったはずの今日の労働が入ってきています。

同僚と打ち解けた時間を共有し、労働の緊張から解放され明日への活力が沸いてきたような気分です。帰りの電車の中でふと、ipodに入った英会話の教材を思い出しました。通勤時間の僅かな時間でも継続は力じゃ、と決心したが結局続けられなかった勉強。そういえばボスに英語のプレゼンがあると示唆されているし。スキルアップを目指すべく決心したのにこれじゃいかんと、反省しながら耳から流れる滑らかな発音に集中してみたり。

‥ヘッドフォンから、終わったはずの今日の労働が入ってきていますよ。

電車を降り、駅から出ると徒歩10分程度でアパートに着く。シャッターが下ろされた暗い商店街のなか白々と発光するコンビニは否が応でも眼につく。特に必要なものは無いのだが、習慣のように自動ドアをくぐり、ざっと雑誌の棚に眼を運ぶ。本日発売のポップが掲げられた週刊誌の表紙に赤で染め抜きされた、取引先会社役員のスキャンダル。半ば脊髄反射のようにその雑誌を手に取り、レジへ向かう。昼過ぎにやってきたその取引先の、気の弱そうな営業担当の顔を思い出す。噂には囁かれていたがここまでパブリックになると、今後のビジネスに影響しかねないなあ、などとぼんやりと考える。

‥凡庸なコンビニにさえ、終わったはずの今日の労働が待ち構えています。

レジの列はなかなか進まない。シフトの関係だろうか、ひとりしかいない店員と、毛沢東のような体型をしたおばちゃんが商品のクーポンのことでもめている。前に並んだ二人の客-てかてかに光った中途半端な長さの髪の中年男と、ジャージを着用した眉毛のない女-はうんざりした表情でおのおのの手のひらにある携帯電話と通信中。溜息をつきたい気分でレジの側の陳列棚に眼を向けると、目にしたことのないパッケージの商品が、しつけが行き届いた鶏のように整然と並んでいた。毛沢東おばちゃんは次第に声を荒げ、店員に食って掛かる。店員はひるむ。どうでもよいから早くして、と思いながら棚に並べられたチョコレート-『ストレス社会を生きるあなたに』と緑の文字で書いてある-を手に取る。どうやらストレスを緩和する作用がある物質が入っているチョコレートらしい。ストレス。ストレス無しに仕事なんて成立しないんじゃないかしらん。仕事の構成要素は実はストレスが92%なんじゃない?そんなことを考えていたら今日のボスの嫌味や後輩の露骨な敵意を思い出して、胃のあたりがむかむかしてきた。ああ、明日も奴らと顔をあわせなければならないのか。至極ニュートラルに響く、おはようございます、の発声練習でもしておかなければ。

‥凡庸なコンビニ商品にさえ、終わったはずの今日の労働が纏わりつく、
んだってば。

アパートのエントランスを入って丁度10歩左手、エレベーターで3階に進む。エレベーターから出て右手13歩左手の扉に鍵を差し込む。玄関で靴を乱暴に脱ぎ捨てジャケットのボタンを外しながら、バスルームに直行する。勢いよくお湯を出し浴槽にお湯を溜めながら、シャツとストッキングを脱ぎ捨てる。ふんだんにお湯がほとばしるごうごうという音を聞きながら、毎日の習慣である半身浴読書に適した本をベッドルームにとりに行く。本棚にざっと目をやり、適当に思える一冊をピックアップし、湯気がもうもうと立ち込めるバスルームへ向かう。髪を束ね、下着を外し、いまだごうごうとお湯がほとばしる浴槽にグレープフルーツの精油を幾滴か、たらす。温かいお湯に身を沈め、厚ぼったいタオルでくるまれた『入門 マクロ経済学』を注意深く、濡れないように開く。大学時代の卒論に必要だったある種のリファレンスとしてしか読んでいなかったので、いつか読み返そうと思っていた本。グレープフルーツの香りはあくまでもすがすがしく、鼻腔に張り付いてかぐわしい。
-私、女だから数字に弱いんです。
それなりに可愛いが、それなりに頭の悪い後輩がボスに自分のミスを指摘されて放った言葉だった。濃いマスカラで彩られた、天に向かって力強く直角にカールする後輩の睫毛がぱたぱたする。ボスは苦笑い。都合良く頭悪く、湾曲されたジェンダーイメージを仕事に持ち込んで他人と自分に甘えているだけだ。同席していたが故に発言を耳にしてしまったが、まるで明治時代に生きているかのような錯覚に陥った。女というカーストが存在するのか?かつてのように。
でもね、その錯覚って、珍しいことじゃなくってね、しばしば訪れるの。労働の毎日のなかで、メディアや世論や一応偉いとされている政治家の発言や、同僚や上司や知り合いの発言に、どうしょうもないような違和感を感じることがよくあるの。別にミリタントなフェミニストではないけれど、違和感を感じること自体が共同体のなかで違和そのものになり排他されるような、無言のプレッシャーを感じるが故に、表向きの沈黙を保つ。

‥嗚呼かぐわしいグレープフルーツの空間が、終わったはずの今日の労働に汚されてゆくよ。

もうもうと立ちこめる湯気の中で、『入門 マクロ経済学』の表紙は湿気を吸ってふにゃふにゃになりつつある。 真っ白な靄の中、文字は霞み、ページ数は確認不可能。

暖められた空気の中、グレープフルーツはやさしく狂おしく立ち込めて、
くっきりとはっきりとあたしの細胞に染みこんでいた、とさ。

2008年8月13日水曜日

Kobayashi Takiji

is becoming famous again in today's Japan. He has been my idle (vis-a-vis a sublime object of my intellectual drive) for past few years. I'm happy to accept that my idle is becoming the hot topic for discussing today's malfunctioning labor condition; at the same time, I feel awkward because his struggle, his agony, his pain and his scream for realizing better democratic society are still underway in the 21st century. The so-called intellectuals keep discussing today's poor labor conditions that include Haken (non-regular workers), working-poor problems, and ridiculously long labor-hours causing death or mental dysfunctions in parallel to the situation faced by Kobayashi Takiji. In the famous last scene of Kanikousen, one of the protagonist says "Unite, once again." Because of the problematic of labor condition and globally integrated capitalist society, it is essential to unite once again in order to achieve a better democratic society, as Kobayashi Takiji hoped.

2008年7月19日土曜日

しかくいピアスが

欲しいの。ダイアモンドにも見えたり光の加減によってはちゃちなガラス細工のようにも見えるしかくい透明なピアスが、欲しいの。

縁日の夜に幼女向けの屋台で売っている、屋台の白熱灯に照らされぬらりと蟲惑的に発光するやわらかく耳を噛むねじ式のプラスティックなイアリングでも良いの。

と呟けば翌日、
不当に搾取された労働力を時間という抽象的な概念によって切り売りされ、余剰労働時間及び剰余労働力を搾取された賃金形態のなかで手にした、不当に換算された賃金のなかから、明日の労働の為に必要な自らの労働力の再生産に必要なだけの生活必要物質を買い戻す為の交換過程に必要な賃金を差しい引いた、不当に換算された賃金の範疇で、不当に搾取され奴隷労働に裏打ちされた資源を加工・細工する労働によって交換価値が吊り上げられたしかくいピアスを、不当に換算された賃金のなかから、明日の労働に必要な自らの労働力の再生産に必要なだけの生活必要物質を買い戻すために必要なだけの賃金を自らの懐に残しつつ、虚ろな意識で呟いたあたしの欲しいものは言葉としてあなたの脳の襞に塗りこまれていて、
翌日

きしきしと節くれだった指はあたしにぬらりと発光するしかくいピアスを刺し
耳を噛む。

2008年6月27日金曜日

non-sensical monologue

あたしが善く思っている人々が最近、悩んだり苦しんだりしている。
直接会うことのできる人々、間接的に会うことのできる人々、そして物理的に会うことができない人々。

あたしはいてもたってもいられなくて、しかしながらあたしはそれらの人々の親族縁者でもなく、友人というにはお互いの歴史やデータが欠けているし、能動的にコンタクトを取ることが難しい現状故に、具体的な介入策を打ち出すことはおろか、相手が吐露する言葉達を真摯な態度で聞き続けることしかできやしない。逆にそんな関係だから、しがらみも何も無く、こころの赴くままに鬱屈した心的現実を言語化できるのかもしれないけれど。

何の具体的な解決にはなりやしないけれど、言葉にすることでこころにかかる重力がすこしでも軽くなって、悩みを軽やかに撥ね付けるきっかけになれればいいな。と思う反面、因習的にカテゴライズされた関係性の枠組み内で定められる、社会的規範/コードによって予定調和な他者との距離感に未だ縛られている自分と出会う。あまり近くなりすぎてはいけない、とinhibitionが働いてしまうのは、多分、油断をすれば次の瞬間、社会的規範/コードからいとも簡単に逸脱してゆく自分を良く知っているから。

うむ、守りに入っている自分に気がつく。まあI'll see what's gonna happen next...

2008年6月8日日曜日

エゴはすでに、涙まみれ

辻潤的スチルネルエゴはまるで、アルルの燦々と輝く太陽の下で描いたゴッホの絵にどしゃ降りのつめたい雨が降ったかのよう。あざやかな色彩は歪みやがて溶け、涙の波に攪拌され決壊し、限界破裂寸前故に流動的な、アイデンティティと呼ぼうには余りにも胡乱な状態だから故、男根主義的近代社会で形成されざるを得なかったあたしの括弧つきフロイド的自我は翻弄され続けているけども、確固たる自我なんて存在しようがなくて、あたしにだけ囁いてくれる括弧付きの甘い言葉を執拗に耳元で反復しながら昨夜あなたはあたしをどこまでもしつこく愛してくれたけど、眼が覚めたあたしが白く発光する朝の光のなかであなたの何を思い出すかといったら、あなたが昨夜口移しで食べさせてくれたあのドライフィグのねっとりとした蟲惑的な甘さだけで、でもしっかりとめくるめく感覚の記憶はあたしの身体に刻印されたままだしフィグのグロテスクな断面は網膜の裏にしっかりと焼きついていて真新しい朝のなかイメージは記憶として白々しく光るシーツに投影されるけれど、

目覚めたあたしのそばにあなたは、いない。

エコはもう油まみれ

原油価格が高騰している。一バレル=140円。原油自体がないわけではないのに。

とある国の偉い人の発言だとか、とある国の泥沼化した戦争による需要の逼迫さだとか、いろいろな要因が絡み合って交換価値が急激につりあがったわけだけれど、各国でデモが頻発するのは当たり前。
第三次オイルショックなんて言われてしまえば、消費者は集団ヒステリアに陥る。買いだめに走る消費者はパラノイックに購買するわけで、さらなる需要をもたらすから、短期的又は恒常的に原油の価値を高めることが可能になる。

モノとカネの即物的・即時的交換による実質経済の規模に比べ、ヘッジかけたり先物したり、様々な投機的操作:speculationによって変動し続ける仮想資本(fictitious capitalってこの日本語でアッテマスカ?)が数倍に及ぶグローバルなマーケット。投機操作や資金の投入でモノの価値が一夜にして変わり、一夜にして億万長者または生きるか死ぬかの困窮に落とし込まれる人々がいる。二元論的に断罪するのは非常にシンプルで解りやすいけれど、根底にある問題を掴みとることが必要。

そうよいまや世界はエコンスーマリズム:Eco/nsumerismの需要が右肩上がりで高まっているじゃない。オイルに焚きつけられたペトロダラーを駆使しての経済発展が劣悪な地球環境を齎し、生命が存亡の危機にさらされている今ですよ。経済発展も、生きている人がいなくては、発展できる場としての地球が無ければ、実現できないんですもの。日本国ではデザイン性に富んだエコ袋やマイ箸袋は飛ぶように売れているらしいじゃない。「エコをしっているから、している」という公共的広告に操作され、「地球によいこと」をできることからしている従順な消費者にとって、それらの商品は気軽に自分の自意識を満たす格好の対象になるでしょうさ。移動には新しく購入したハイブリットマイカーを使い、家の電球は消費電力が少ないLEDに総換え、休暇の旅行ではカーボンオフセット制度を取り入れた交通機関ならびに宿泊施設を利用。少し単価が高くたって仕方が無い、なぜなら「地球に良いこと」をしてるのだからあたしたちって、エコ意識強い素敵な市民でしょ。こうしてエコンスーマリズム・マーケティング戦略並びにCSR力強化で付加価値を高めた企業は、企業の信頼度を向上させる「地球によいこと」をしながら、富の蓄積を実現できるという、うはうはな決算期を迎えることができるのでしょうさ。

サミットあるしテーマは環境問題だし、ホスト国である日本はこの原油高騰について大したこと無いもんねー、だってうちはエコな国だし発電は原油に(それほど)頼ってないし技術大国だからどんなことでもできるし、昔オイルショックで国内消費者大混乱という歴史があるから、それから活かせる経験と実績はきちんと蓄積してるもんね、と国際世界に向けて思わず強がってしまった模様。

自然資源を搾取=利用することによって利益を生産しつづけ/てきた資本の無謀な欲望は、その発展の限界=limitを想定し、あらたなシステムを生産した。eco-capitalism:エコ資本主義、キャップアンドトレードなど、地球温暖化ガス排出権の売買に色濃く現れる、いわゆる先進国と経済発展が芳しくない国の間に立ち現れる、不均衡な関係。いわゆる先進国の過激な資本のドライブによって生産される二酸化酸素(工場、農場、消費者のライフスタイル-車など)を、経済発展がままならぬ第3諸国の国々に買ってもらい、その代償として支援をしようじゃないか。ルールはこちらが決めるから、支援が欲しかったら従え、というユニラテラルなシステム。

根源は、何処。地球に良いことだって、市場のお金のやり取りだって、結局ルールを作った人間が勝利するってことじゃない、富の蓄積の名において。

ねえ、フリードマンさん、自由経済なんてくそくらえよ。

2008年6月4日水曜日

吐露

ああもういやになってしまいそう、この手緩さに懐柔されて瑣末な日常としての関係性を、維持・発展させるためにどれだけ自分が身を粉にして(しかも半ば脊髄反射的に)、同じ言語を有する=同じルールを有する、であろうという短絡的な共同幻想を打ち立てる集団の一員として、あたかも満たされているかのように振舞う自分に。

2008年5月15日木曜日

アウェイのアウェイで戦うということ

前近代的な因習が色濃く残る地方都市の中小企業で、他者である外国人を相手にビジネスを展開させていかなければいけない、今日この頃。下手に英語ができたばかりに、全く興味が無く展望も薄いアウェイなフィールドで、利益産みマシーンの部品として組み込まれ回収され、搾取され続ける今日この頃。

「石版を持って来い」という日本語が通じない相手は、ウイトゲンシュタイン的に云えば他者である。言語という共通のコードを持たない者とのコミニュケーションを通じての、「売る-買う」という交換関係の最前線にさらされております。

どうして資本主義に飼いならされた人間は組織及び国家の利益の為に身を粉にし利潤を高める努力を重ね、全く自分とは無関係な無関係なエリアでただ資本の蓄積へ向けた剰余価値の生産に向けて、自己犠牲を重ねることができるのであろう。

外国人よりも他者なのは、全く疑問を持つことなく組織の発展及び資本の蓄積の為、自らの労働力を不当に換算された価格で販売し、自らの労働力の再生産を不当に搾取された賃金形態である自らの収入でまかない、不当に搾取された労働で生産された諸生産物を購入し明日の労働に耐えうる身体及び精神的諸能力をメインテインする従順な労働者である。そんな「奴ら」がマジョリティで成り立つ中で、ましてや「石版をもってこい」と言っても通じない他者の中で日々労働すること自体が、あたしにとってアウェイのアウェイで戦っているみたいなもの、なのですよ。