2007年12月29日土曜日

自分用覚書

the net cafe from the bird's eyes:

among the nerds, the so-called net cafe refugee(research on that)

to critically examine the commercial space immersed in the "private"

the private =surveillance;

to internalize the other's gaze;

to act like as if you are always being "gazed"

2007年12月25日火曜日

浄土真宗的メリークリスマス

高度にハイパー消費主義が浸透した国家において、いわゆる年末商戦というのは、決算前の重要な時期である。いかに売りいかに利益を得るか。その為には、でっちあげられたファンタジーを打ち出すマーケティング戦略だって欠かせない。

ファンタジーその1:「家族と暮らすクリスマス」
 大学生(である息子):
期末もかろうじて終わったし、テストや論文の結果なんて関係ねえ。ファイナル が終わった瞬間飛行機に飛び乗り削りとおした睡眠を貪り、実家に帰って自堕落な甘えの時間をすごすぜい。

 母親:(大学生と高校生の息子を持つ)
あらあらまあまあ、明日のクリスマスイブにせっかくカリフォルニア大学人類学部に在籍する自慢の息子が帰ってくるというのに、まだクリスマスショッピングが終わっていないわ。しょうがないからちょっと車を走らせて、ワルマートやシアーズ、メイシーズも入っている車で一時間程度の場所にあるショッピングモールに出向いて効率よく、買い物を済ませようかしら。グランマにはやっぱり質のよいカシミアのひざ掛けをじっくりと選びたいし、最近婚約した姪のエリザベスには実用的な生活用品が買えるようにシアーズの商品券をプレゼントしたいし。何よりも息子のショーンが大好きなスタッフドチキンを準備しなくてはならないから、時間の節約が必要ね。そう、時間の節約。ヴァケーションに入ってカウチに横たわり、ぼんやりとテレビを観ている夫に手伝ってもらおうかしら。

夫:(大学生と高校生の息子を持つ)
 久しぶりの休暇。ホリデーシーズンに放送される、ドラマシリーズの初回から最終回まで一気にぼんやり眺めつつ、のんびりしようかと思った矢先、妻のシーラがにたにたと笑いながら歩みよってくる。「今年のクリスマスはショーンが帰ってくるのよ」。おお、そうだな。FRESHMANだった去年は寮のリーダーを任されたから、クリスマスには帰ってこれなかったものな。「そう、久しぶりに帰ってくるから、あの子が大好きなスタッフドチキンをグランマと一緒に作ろうと思うの」。それはいい考えだ、ショーンもおふくろの味を恋しがっていることだろう。シーラは相変わらずにこにこと笑い続けたまま、右手に持ったスターバックスのコーヒーカップになみなみと注がれた、ストレートのスコッチを啜る。「お願いがあるのよ」カモーン、やっぱりきたよ。シーラ得意の"DO ME A FAVOR?"語尾は上がり疑問口調なのにもかかわらず、DO MEという命令口調ではじまる、彼女のお願い。甘いスコッチの香りを唇の端から発散させつ、申し訳なさそうにシーラは云う。「明日、お買い物に付き合ってほしいの。ほら、車で一時間ぐらいであのモールにいけるじゃない。あそこに行けば全てはパーフェクトなの。グランマのカシミアも、エリザベスのシアーズカードも、ショーンのスタッフドチキンも、全て一度にそろうの。だから。」
「わかったよ、運転すればいいんだろう」
シーラの淀みなくしどろもどろに発せられる言葉はすべて出揃うまえに、声にかき消される。
酔いのせいですこし赤くなった頬を緩めたシーラは安心したように微笑む。
「ありがとう、あなたのおかげでこころにかかる重力が軽くなったわ」
ひらひらと手を振り、シーラは機敏な動作で、寝室に消えていく。
一仕事終わった、というような爽快感をパジャマの上に羽織ったバスローブの裾にはためかせながら。
甘いスコッチの残り香が立ちこめるリビングで、テレビだけが青白く発光している。

何故埃まみれのリノリウムの床を、靴を脱いで歩かなければならないのか??

かなりハードだったファイナル期間、ショーンはクラスをパスするため(そして出来る限りいい成績を残し、将来の選択肢を出来る限りオープンにさせるため)、インテンスな生活を送っていた。学生というのが、学問に生きると書いて学生という読んで字の如し、図書館にこもりリーディングを進め暗記物をやっつけ、睡眠時間を削って論文を仕上げ、カフェテリアで偶然会う友人との会話さえ復習作業にいつしか集束されていく。
ここ一週間の総合睡眠時間ははたして何時間であろう。否、日々こつこつと予習復習を行っていれば、こんなやっつけ仕事になるはずではなかった。しかしながらキャンパスライフは忙しい。蝶々のようにひらひらと周りを旋回する女の子達とのデートスケジュールは、多少オーバーブッキングしていたし、ルームメイトとのポットパーティーではいつもホスト側に廻らなければならなかったし、たまたま聴講していた音響工学の授業で運命的に一緒になり、音楽的感性の調和がもたらされたベーシストジョンとのジャムセッションも、キャンパスライフには欠かせなかったから。

結果、機能しない脳を抱えて、飢餓的に睡眠を求めるぼろきれのような疲れきった身体を引きずって、シカゴ・オヘア空港行きボーイング1445に倒れこむようにして乗ろう、としていた矢先、

つるつるしたプラスティックのゲートが目の前に聳え立つ。バックパックのなかからラップトップを引き出し、ベルトコンベアに載せられたトレイに置く。ジーンズの尻ポケットでじゃらじゃらと音を立てるさまざまな貴金属類ー携帯電話、家と車の鍵、ダイムやらクオーターやら―もトレイにぶちまけ、プラスティクゲートをくぐる順番を従順な子ウサギのようにおとなしく待つ。肉感的な唇を卑猥に歪め、背の高い黒人の女が、牡蠣貝のような眼をこちらに向ける。「TAKE OFF YOUR SHOSE」。従順にセキュリティーゲートの順番を待っていた人々が次々と靴を脱ぎだす。ナイキのスニーカーも、パトリスコックスのローファーも、イタリアの職人が丹精込めて製作した華奢なパンプスも、プラスティックゲートの前で、脱がされる。貴金属を身包み剥がされ、ナイキのスニーカーを片手に持つブラザーがプラスティックゲートを裸足でくぐる。右手に持ったパトリスコックスのローファーを左手に抱えたウォールストリートジャーナルで隠し、仕立てのよいスーツを身にまとったエクゼクティヴ風の若い男も裸足でプラスティックゲートをくぐる。ほそいヒールのパンプスに負けじとも劣らないぐらい細い足首に包まれた絹のストッキングにつつまれたつま先が、プラスティックゲートをくぐった途端、腰が砕けてしまいそうになるくらい間抜けな信号音が辺りの静寂を破る。途端に肉感的な唇を歪めながら背の高い黒人の女が、枯れ木のように痩せた女に駆け寄り、ポケットから円形状の機械を取り出し、女の細い身体のラインを撫で回し始めた。機械はある部分で、まるで小動物が苦しげな声をあげるようなきゅうという音を、断続的に発生させる。痩せた女の身体の全ての部位を撫で回した後、背の高い黒人の女は満足、という風情でうなずいて、セキュリティーチェックにかけられた鞄やら書類ケースやらコートやらを、痩せた女の前にどさりと置く。細いヒールをほとんど骨と皮である指で支え、滑らかな布に包まれたかかとを靴の中に落ち着けると痩せた女はきっぱりと前を向き、鞄やら書類ケースやらコートやらを小脇に抱え、真っ直ぐに搭乗ゲートへと歩いていく。

何故埃まみれのリノリウムの床を、裸足で歩かなければならないのか??


長時間のフライトでからからに乾燥したいがらっぽい喉を、バックパックのサイドポケットに突っ込んだボトルを取り出し、なまぬるい水でとりあえず潤す。離陸のアナウンスも着陸のアナウンスも聞こえなかった。飛行機が地上と地上の接点をつなぐ間めいいっぱいに、昏倒するようにショーンは眠りこけていたようだ。喉をとりあえず潤しあたりを見回すと、あらかた乗客は機内からでたあとらしい。整然とならぶエコノミーシートの頭の部分に乱れた状態でかかるヘッドカヴァーの白が寝起きの眼に刺さる。のろのろと足の下においたバックパックを担ぎ、乾いた砂が詰められたように重い身体を引きずるようにして機内から脱出する。どこまでもだらだらと続く、没個性を空間化したような無駄に永い廊下を潜り抜け、誰でも誰の荷物でもそのままピックアップできそうなセキュリティーの甘いバゲージクレームを抜ける。リノリウムの床にスニーカーのゴム底はきゅうきゅうと鳴る。到着ロビーでショーンを迎えたのは、心配顔の母と、親族縁者一同があたかも死に絶えたように沈鬱な仏頂面を浮かべる父だった。
普段より幾分化粧が濃い母の、シャネルのアリュールの香りのハグに噎せかえり(ガールフレンドのひとりが同じ香りを身につけている)、駐車場へ向かう間矢鱈滅多らに肩をばんばん叩き続ける父の快活な表情に戸惑いつつ、シカゴ・オヘア空港駐車場ターミナルにエンドレスに流れる「TAKE ME OUT TO THE BALLGAME」を聞き流す。本日のシカゴ・オヘア空港の天気は吹雪、気温は摂氏マイナス2度でございます。

2007年12月20日木曜日

嗚呼哀しき感情労働者

今日も時間に換算された賃金を頂いて、かろうじて生存に必要なだけの商品を購入し、サラリー女的生活を営み、毎日生きております。そして明日の労働の為に今日も、資本そして組織が求め、労働時間という抽象的な単位に区切られ、平均化されそして不当に搾取され続けているあたしの、労働力商品という身体的・精神的諸力の質をさらに「スキルアップ」し、明日もまた効率よくあたしの労働力が商品として売買可能なモノにさせるべく、労働力の再生産作業を労働時間外で行い、日々サラリー女的ライフを行っている次第でございます。

労働力商品としてのあたしの労働力―身体的乃至精神的キャパシティ―。

あたしは20世紀中盤から飛躍的に伸びた、第三次産業―いわゆるサービス業に従事しております。
何石米を生産したか、または何個車を製作したか、という物質的な商品の生産のみならず、「サービス」という付加価値が販売するモノについて廻る。いわばサービス業は全般的に、いかに物質的な商品に、自らの情動、知性、そしてコミュニケーションといった感情労働という付加価値を付随させ、さらなる商品の販売=生産を可能にさせるか、という問いに尽きるのであろう。

たとえばサービスの前線/front lineで。商品の売買過程において、お客様とコミュニケーションを取り、気持ちよくそれらの商品を買っていただくことによって、お客様の満足を生むことになる。満足したお客様は同じサービスへの反復的・盲目的な購買活動を将来的に継続する傾向が強く、潤滑な情動の交換はよりよい商品の購入行為を結果的に齎すこととなる。故にさらなる組織の利益と資本の蓄積。

自己欺瞞。

資本の利潤なんてくそくらえ。あたしは組織が求める利益やさらなる資本の蓄積や自分のサラリー女的身分なんてどうでもよくて、ただ(それが仮に商品売買という過程のなかであっても)出会ってしまった人々には、真摯に向き合いたいだけ。結果的にそれが組織の利益につながっていってしまうだけ。

感情労働。資本主義社会のなかで、人と人のあらたなコミュニケーションを生産する1つの契機を作り出す労働形態かもしれないけれど、それさえも資本の力に回収されていくのを目の当たりにする。

哀しき感情労働サラリー女は今日も戦略を、練る。

資本の力に拮抗し得る情動の交換=交感を、日常の労働現場で生産し、あらたなコミュニケーションのウェッブを繰り広げよ→自分へのマニフェスト

2007年12月4日火曜日

自分用メモ

会社でブログを作成。嗚呼甘美なるサボタージュ。

新規構想を忘れないうちにメモ:

構成:日記、ブログ、Eメール、エクリチュールの切れ端のコラージュ、
   →声のポリフォニー

場所:アメリカ東海岸
時:二月、極寒
主体:常に流転する、不在の作者―場面場面でのauthors、monologueにデリダ的バツをつける(発せられた言葉たち、記録/記憶される書かれたもの。
「内面」なんて存在しない。
「語ることによって(モノローグによって)初めて内面が生産される」
Writings and differences, by Jacque Derrida

モティーフ/キーワード :
発話、誰かに向けられた(ラカンの『エクリ』、ポーの”the purloined letter” を参照せよ)
言葉と、死の跳躍(交換、交感、『絶望という病』)

産業予備軍としての主婦、因習的な男女関係とリベラリズム(家庭に張り巡らされた権力のウェッブと、身体に浸透した男女の歴史性、差異)、革命的な主体と歴史的に捉えられなかった主体―所謂ルンペンプロレタリアート等ーの蜂起、interwindings of writings by the so called intelligentsia and the those people who have been excluded will illuminate the creation of new space filled with differences.

the objectives:
to liberate the parole that has been repressed in patriarchal space (i.e., the capitalist society, the conventional system of repression called ie); to state the moment of confrontation/the struggle of activists; at the same time to illustrate the struggle within the conventionally constrained relationship between women and men.

authors:
A. women in the struggle in Hyde park
B. the so-called intelligentsia
C. activists/independent scholars lived in NY
D. local activists (model=Midwest unrest)
E. women in California, (preferably, prison activist??)

2007年11月30日金曜日

トウソウ本能

今日も時間に区切られ、等分に均質化され平均化された労働力商品としての諸力―身体的であり精神的なキャパシティ―を賃金と交換するサラリー女的日常を過ごしております。そして身体即精神的キャパシティーの商品化を前提に成り立つ、この高度に発展された資本主義社会に、亀裂を走らせる引っかき瑕を内側から、逃走線として刻印し続けていくことを常に、欲望しております。抽象的かもしれないけれど、昔の人々が描いていた「来たるべき」あまい夢のような革命ではなく、いま、ここで、もうひとつの世界を想像し、そして創造していくことを切実に欲している。

例えば:
抗議運動、ワークショップへの参加、労働の(プチ)サボタージュ、従順な労働者=消費者であるものだけが享受できる「自由」を切り売りする、歪められた民主主義社会における「一票」である消費へのサボタージュ、あるいは多国籍企業批判としての非購買行為(搾取工場製品、いわゆる大量生産「ブランド」商品、地球温暖化を加速化させ人々のスペースであるストリートを暴力的に占拠する車)、ブルジョアイデオロギーに塗り固められたコンヴェンショナルな関係―性差を問わず―へ常に疑問を抱き、あらたな他者との関係性を模索し構築していくこと。

何よりも重要なのは、考え続け、考え抜くこと。
ミシェル・フーコーの云う権力のテクノロジーは網の目のように張り巡らされ、思考停止に陥った主体が跳梁跋扈し、資本主義的日常という「自然」を絶え間なく生産/再生産する。さまざまなinstitutes―学校、職場、法、警察、そして大型ショッピングモール?!―を通じて、ネオリベイデオロギーは浸透し、ハイパー消費主義は人々の思考停止を促す麻酔のような刹那的快楽を提供し続ける。あたかもオルタナティヴなんて存在しないかのように、メディアは巧妙に造られた幻想を流布し続け、世論/世間という神話的共同幻想を構築する。この権力のテクノロジーが張り巡らされた日常という、資本の無謀なドライヴによって形成され、暴力的に汚染された「自然」を生きることは、進化と順応のパラドックスを生む。汚染された空気を吸い続けることによって、その毒に耐え切れなかったはずの肺はいつしか進化し、生命活動を存続させることが可能になるかのように、権力の暴力はまるで大昔から空気中に偏在しているかのように、自然なものとして、汚染された日常を生産/再生産し続ける。

いまここで必要なのは、本能に従うこと。植民地化された身体を脱領土化し、からだが欲するまましなやかに巧妙に仕組まれた権力の網目から逃走し、隙間から流れ出す新鮮な空気を享受するために闘争していくこと。

ヒポコンデリーの沼に沈んでいる暇はない。
自らのトウソウ本能のままに、逃走/闘争せよ。

2007年10月11日木曜日

Blog as the appratus of monologue?

いつもブログを書くたびに考える。
ネット空間で「書く」という作業は、自己完結型な独白なのであろうか?
それとも自分の思考に、あるレベルの客観性を与えるために必要な、
プラットフォームとして、ブログというネット上の空間を使用しているのか?

「書く」という作業は「読まれる」という行為を前提に行われ、
言葉を紡ぎだす主体は、読者=他者の存在を想定して書く。
ネット上に有象無象に存在している他者=読者を想定し、
自分の思考を言葉として具現化し、深化させること。

この意味でブログは或る意味、思考の客観性を保つ1つの装置となる。
なぜなら他者に読まれることを大前提として書かれるものだから。
お友達相手ではなく、ネット上に有象無象に存在する、
絶対的差異をもつ他者にむけて、放たれる言葉。

と、モノローグ装置としてブログを活用しても、たまにはいいでしょ(苦笑)

2007年9月21日金曜日

最近気になること

興味の対象は、分裂的に広がっていく。
最近のニュースで気になる対象を箇条書きにすると:

1.サブプライムローンの焦げ付きと金融バブル
→世界的に飛び火する金融危機。
貧困層の限られた資本力さえも巻き込み自滅する、
資本の無謀なドライヴ。
2.日本のパキスタン軍への給油活動、そして国連の「謝意」
→自民党総裁選へと向けた保守派の苦肉の策。
国連において権限を持たない国が、国連をコントロールする某国が行う、
泥沼の戦争支援をすることによって得る、反対勢力である民主党への牽制。
3.地球温暖化による永久凍土の溶解による大量のメタンガスの発生
→二酸化炭素の数十倍にもおよぶ温暖化ガスのemission。
温暖化が温暖化を生む、生命の危機。

2007年9月16日日曜日

before then

http://stop-rokkasho.org/read/before-then-j.html
Norma Fieldの詩を読んでいたら、 やっぱり音を聴きたくなりました。
http://stop-rokkasho.org/media/1/67_before-then.mp3

放射性廃棄物の再処理工場では、 原発が出す一年分の放射能を、
一日で放出する。
日本中の原発の廃棄物は、六ヶ所村に集められ処理される。
青森県六ヶ所村の海や空や大地や鳥や魚や花や人は、
垂れ流しのプルトニウムで汚染され放題。

あたしが大好きな、蜜がぎっしり詰まった林檎を 齧った瞬間、
ヒバクしてしまうってことかしら。

So what's gonna happen after all?

新聞のヘッドラインは無味乾燥に原発事故を報道する。
目に見えない放射能は、ひたひたと命を侵食する。

だから、想像するしかない。

あたしの呼吸と六ヶ所村の空はつながっている。
だけどメディアは、あたかも繋がっていないように、報道する。
過剰なセンティメントとは距離を置いたつもりなのに、 想像してしまう。
after allではなくbefore thenの可能性を。

過去日記その2

I shop therefore I am. 我買う故に我あり。 資本主義的デカルト型人生。

テレビの電源を入れるとコマーシャルが五月蝿い。
受動的に摂取する情報の、オートマティックな刷り込み。
これを買うとあなたは幸せになれますよ。
これを所有すると、ステキなライフスタイルが約束されます。
だから買ってね、にっこり。極上の、洗練された笑顔。
企業の欲望のメッセンジャー。
快楽原則=更なる資本の蓄積と富の集中。

CMには耳障りの良いコピー、手ぬるいBGM、
そして 旧共産圏の国営放送の主人公みたいな笑顔しか出てこない。
にっこり。幸福の徴しである笑顔。
笑顔イデオロギーは宣伝媒体を介して、日常に侵食してくる。
あたしにとってそれは余りにも健康的で人工的で、白々しく、空恐ろしい。

稀にアクシデントで、モールやデパートに迷い込んでしまう。
消費空間は至るところに待ち受けているから、回避不可能。
大量生産プラスティックとメイドイン搾取工場お洋服に包囲され、 膨大な量のモノと情報のインフレーションにくらくらと眩暈。 陳列された沢山の商品。倉庫での大量虐殺が約束されたモノ。 メディアと企業が手を組んで、技術的に生み出される流行。 虐殺を免れるか否かは、多国籍企業の戦略に依存している。 ダーウィン的淘汰。資本主義が形成する「自然」のなかで。 流行としての価値。

流行としてのハイテンポな情報更新。
「つまり・・・モノの価値=時間を奪い取ることである」      
『消費社会の神話と構造』ジャン・ボードリアール

2007年7月29日日曜日

rough-rough thesis

地球といのちの存亡をかけて、真のデモクラシーへの道は開かれつつある。本稿で私は、1990年代に世界中で起こったグローバルな抗議運動に焦点を当て、真のデモクラティック・プラキサスを検証する。反グローバリゼーション運動や、social justice movement、さらには民主主義支持運動と呼ばれる大きな流れは、激化する環境破壊や、終わりなき戦争、南北間の不平等発展や東西の対立を生み出しているグローバルに統合された(経済)システムに対する、民衆の大規模な異議申し立てであった。とりわけ重要なのは、1999年秋のシアトルでの、WTO官僚会議での抗議運動である。雑多な目的を持つ多様なグループが、真のデモクラシーへの共通な欲望のもと集結し、大規模な抗議活動を可能にした。この場において権力は中央集権化されることなく、力は人々に平面的に分散され、多種多様な目的を持つグループの異質性と単独性を保たれたまま、他のグループとの連結が可能になった。真のデモクラシーの実現に必要不可欠なこれらの要素を深化させ、シアトルでの運動でひときわ光彩を放つ、スターホークという環境活動家に焦点を当て、本稿はいのちの存亡をかけた、地球とのあらたな関係性の構築を提示する。

1.民主主義支持運動とはなにか
 A.ナオミ・クレインが言うところの"pro-democratic movement":define
 B.1999, Seattle; the shut down of WTO meeting
 C.the role of affinity groups:
 →環境活動家スターホークの役割
2.スターホークとは誰か
 A.歴史と背景
 B.地球=生命
 C.自然性=女性
3.環境危機とデモクラシー
 A.デモクラシーとは、なにか
 B.自然、マルティチュード、人々の力
 C.革命的契機としての環境危機

2007年5月17日木曜日

ひたひたと、深く

考えたい。知性が研ぎ澄まされて、思考がどこまでも深くなっていき、感覚の地平がどんどん広がっていく時間。ニューロンの過剰発火は脳に心地よいスリル。
おそらくあたしは、知的エクスタシー中毒。

考えることはあたしにとって、呼吸すると同じこと。日常生活の煩雑で凡庸な出来事の反復に支配されてしまうと、どうしても思考が浅くなる。呼吸が浅くなる。知覚できることのレンジもどんどん狭くなる。だからふと立ち止まって、深呼吸をすることが必要。注意深く世界を感じて、ひたひたと押し寄せてくる思考の深みにはまる。フランス語でいうところのアタンションかしら。

あたしを「あるべき労働者/消費者」の鋳型にはめ込もうとする見えない権力の力は、職場や因習的な人間関係のしがらみやメディアや商品を通じて日常生活に容赦なく入り込んでくる。資本の力に流されちゃいそうになる瞬間、あたしは立ち止まって考える。
深呼吸。内なる声に耳を澄まし、内なる力を喚起させるために。
そしてあたしに立ち戻る。
深く考えること。それは現体制に対する疑問と危機感を持つことにとって必要なことである。
なぜなら日常生活こそ社会変革の実践の場であり、革命へのバトルフィールドであるからだ。

2007年4月20日金曜日

おもてなしの科学

質の高いおもてなしを実現できれば、お客様はまた来てくださるのではないかしら?
という淡い期待に一石を投じる実験結果を発見したので、ご報告させていただきます。

コーネル大学ホテルスクール、ジュディ・シガーウ博士による実験は、顧客満足度とリピーター率に科学的な因果関係がないことが明らかにしました。顧客満足度(以下CS)が高ければ高いほど、お客様の価格に対する感覚は麻痺し客単価アップにつながることは明白な事実です。さらにCSの高さととお客様ご自身によるポジティヴな「口コミ効果」は連動している故、新しいお客様の獲得にも貢献します。しかしながら、いくらお客様がホテルのハード・ソフト面で満足していただいたとしても、そのお客様が将来継続的に同じホテルをご利用なさるとは限らないことが科学的に立証されました。

またお客様にお越しいただけるような、おもてなしの方法はあるのでしょうか?
シガーウ博士はリピーター率の高さとお客様の「ロイヤリティ」がもたらす収益性について言及しています。ロイヤリティとは「ある商品やサービスを将来継続的にひいきにし、そして再購入することに深く献身し、他商品やサービスへの移行を促す状況的な影響やマーケティング活動とは関係なくもたらされる、同じブランドへの反復的な購買行動」と定義されています。故にロイヤリティが高ければ高いほど、同じ商品・サービスを継続的に購入するという行動と直結し、お客様にまたお越しいただくことにつながります。

ロイヤリティを高める決定的要素は何か?シガーウ博士は「お客様とスタッフのかかわりあい」であると言及し、さらに最もロイヤリティが高まるのは、「こころのかかわりあい:ego involvement」であると断言しています。 「またこのホテルに来たい」。そうお客様に思っていただけるようなおもてなしを実現させるための、ロイヤリティを高める接客の科学的な事実を博士は提案しています。

年配のお客様は承認願望=自分が何者であるかを覚えてほしいという欲求が強い(特に男性)。故に可能な限り「いらっしゃいませ、~様」と名前で呼び、時と場合に応じて社会的ポジション(役職)などで呼ぶことによって、お客様のエゴを満たし、リピーター獲得につながる。
年配の女性のお客様はリスクを軽減したい傾向が強い。故にお客様のリスクを最小限に抑える為の情報提供が鍵である(例えば空港バスに乗る年配のお客様に、到着後の乗り換え便の場所や、到着後の乗り継ぎ場所までの行きかたをさりげなくお知らせしながら、停留所までご案内する)。
女性のお客様は「自意識」を満たしてくれるサービスを好む。故に、 装飾品やお召し物に関する話題がコミュニケーションを円滑にする傾向が強い
ビジネス客は様々な客層のなかで最もロイヤリティの潜在性が低く、他ホテルに移行する確率が最も高い。忙しく働く彼ら・彼女らが求めているのは丁寧かつスピーディな対応である。

僭越ながら、ご紹介させていただきました。
出典:コーネル大学ホテル・レストラン経営学季刊誌(Aug 2004)
http://www.hotelschool.cornell.edu/research/chr/pubs/quarterly/featured/execsummary.html?name=aug04siguawskogland.pdf
”Are your satisfied customers Loyal?" by Iselin Skogland and Judy A. Siguaw

2007年4月12日木曜日

遅ればせながら『不都合な真実』

教科書のように解りやすく、地球温暖化を理解できる素敵な映画でした。

資源の略奪で戦争が起こることは自明の事実。
地球温暖化による水の枯渇の利権争いで戦争が絶えないこともまた事実。

あたしが自動車免許を取らずに自転車とバスを活用するのは、
実は地球温暖化対策なのよ、というエクスキューズが出来た。

高度に成長した資本主義社会の中で、テクノロジーに頼らずに生活をするのは、無理。
だからこそ、できるだけ環境に配慮した車や冷蔵庫に買い換え、地球温暖化対策をしよう。
自転車にのって、マイ買い物バッグ持って、ウォーム/クールビズでエコライフしよう。
なぜなら一人一人の心がけで、地球の環境は良くなるんだ。
余りにもナイーヴに聞こえるが、すがらざるをえない、選択肢。

所詮人間一人一人のCO2排出量なんて、マクロなレヴェルでは微々たる物。
メジャーな環境破壊エージェントは、自然を搾取=利用し利潤を得る大企業でしょう。
さらなる資本の蓄積へとドライブをかける国家と、企業の肥大した欲望こそが、
地球環境をめちゃめちゃにした主人公でしょう。
権力は、その真実を隠蔽し、否認し、資本のロジックを強化するためにどんな手でも尽くす。
それを知っているが故にゴア氏は、ボトムアップの地球温暖化対策を訴えるのかもね。

2007年2月12日月曜日

home is where heart is

というBlazeの曲が大好きで、クラブでかかるとあたしは熱狂してしまう。

home is where heart is...there is no place I'd rather be...

透明な歌声と繊細なピアノのメロディ、そして内臓に響く重いリズム。
何といっても、詩が最高。

「帰ることの出来る場所=home」は、「いつでも帰ることができる」安心の空間。
こころが在るところに、お家があります。建築物としての目に見えるお家ではなく。
あたしが出会った大切な人たちは、あたしのこころの中に住んでいる。

もう二度と会うことがないかもしれないけれど、
いつか、どこかで、ひょんなきっかけでまたばったり巡り合うかもしれない。
もしかすると、そのときまで、左様なら。
そのときは、まるで昨日会ったばかりかのように、笑いながら語りつくしましょ。

トクヴィル

『アメリカのデモクラシー』より。

平等は二つの道に通じる。
一つは人々を独立心旺盛にし、無政府へと向かわしめる道。
もう一つは、ゆっくりと知らず知らずのうちに隷属へと向かう道。

後者は形骸化された民主主義の名の下に進む、ファシズム。
「なぜ人々は自己の抑圧を愛するのだ?」ライヒの言葉。
権力への服従を、自ら望む人々。
自分で考えて動くより、何となく動かされるほうが、ラクなのかしら?
権力に?メディアに?世論に?
それとも、権力のテクノロジーが日常生活の隅々にまで浸透し、
「自ら思考すること」を放棄し、思考不可能な主体が形成された結果なのかしら。

「この生活が維持できるのなら、何が起ころうが私には関係ない」
ボーナスでフラットスクリーンテレビも買えたし。
このあいだの選挙では若手に一票入れたし。
地球温暖化に憂慮して、冷蔵庫も新しく買い換えたし。
新しく始まったドラマは面白くなってきて、職場仲間との会話も弾むし。
些細な悩みや葛藤はあるけれど、カラオケでストレス発散するから大丈夫。
そういえば、自衛隊を総括する組織が「省」になったらしいけれど、
「美しい国」になるためには、きっと必要不可欠な国家的手段なのだわ。
そんなことよりも、近頃学校に行きたがらない息子が心配だわ。
いじめを受けている様子はないけれど、主人に相談したほうがいいわね。
平穏な、いつもと変わらない日常をぐるぐると廻らせる為には、
「...何が起ころうが私には関係ない」
この生活が維持できている限りは。

地球が気候の危機に直面して、人類の存亡が絶望的な現状。
生活維持どころか生命維持さえも、難しい。
そんな中、思考放棄している場合じゃ、ないんじゃないの?

2007年2月9日金曜日

days of war/nights of love

「量」が「質」の変容をもたらす。
社会的に主流な労働形態が社会的に主流な超自我を形成する。

たとえば、工場労働者。
時間に区切られた機械的労働は、労働者の日常生活を機械的に区切り、
労働者に「時間」の概念を植え付けた。
チャップリンの『モダンタイムス』に描かれているように、「労働時間」内は、いかなるサボりも許されない-ベルトコンベアラインを離れ、トイレで一服点けるチャップリンを、壁一面に巨大に映し出された「資本家」が怒鳴りつける。「労働時間内」は工場という巨大な機械の「生産性と能率性」を高めることが余儀なくされ、常に監視されている。

たとえば、現代における非物質的労働者。
情動、コミュニケーション、サービス、知識など、物質的な生産とともに、非物質的な労働が伴う、現代における主流な労働形態。グローバル経済化によって要請される、移民、非正規労働者、派遣、(所謂)フリーターなどの、フレキシブルな労働者にとって、時間や空間的拘束(労働時間や労働する場所-たとえば工場)は必要とされてはいない。
必要とされているのは、フレキシビリティとクオリティ。いかに、柔軟的に日々刻々と変わる労働形態に対応できるか、そしていかに質の高いサービス、情動、コミュニケーション、知識を商品として提供できるか。言葉を変えれば、いかに自己をフレキシブルな、質の高い労働力商品として市場に投入するか、ということである。

自己をいかに質の高い労働力商品として売るか。買い手の要望はさまざまである。多様であるが故、労働力商品市場の競争を勝ち抜く為には、情動やコミュニケーション、知識という自己のメンタルキャパシティのスキルアップを高めることが、肝心である。ここで労働時間は曖昧になってくる。なぜなら労働者は、自己を労働力商品とさせるために、非物質的労働の質を高める為の再生産作業を行わなければならないからである。そしてここで、「資本家」の「監視の目」は、労働者自身に内面化される。労働時間外であろうとも、非物質的労働に従事するが故、自己を常にスキルアップさせていかなければならない。単調な機械労働ではなく、情動、コミュニケーション、サービス、知識の質の高さが要求される労働条件ゆえに、労働時間外である、本来労働者にとって自由な時間さえも、非物質的労働の再生産作業に費やされる。

と、枕が長くなってしまった。

ポイントは、現代において非物質的労働が主流であるがゆえ、労働現場を離れた場所で、労働力の再生産を行っているつもりでも、いつのまにか「労働」が入ってくる。頭を使う労働、非物質的労働は知識やコミュニケーション、人の情動と深く関わっているが故に、労働時間の境目が曖昧になり、労働力の再生産作業さえも、労働の一環として組み込まれるようになった。

crimethinkのdays of war/nights of loveは、所謂「商業化された愛: commercialized love」を痛切に批判している。"Love as a subversive force to demolish the established order"

反抗に加担せよ:恋に落ちよ。恋に落ちるということは、今日における退屈で、社会的に拘束され文化的に窮屈な、人間的に無意味な世界において、究極の革命的行為である。...この意味において愛は破壊的だ、なぜならそれは我々の近代的生活における確立された秩序に脅威をもたらすからである。一日の労働の生産性や社会化されたエチケットという退屈な儀式は、そこに惰性や慣習よりももっと重要な力が彼を突き動かすが故に、恋に落ちた人間にとっては意味を成さない。...愛は、我々の政治システムに脅威をもたらす...我々の社会自体に脅威をもたらす。情熱的な愛はブルジョワジーに無視され、そして恐れられる。なぜならそれは彼らが切望する見せかけの安定にとって大きな脅威となるからだ。愛はどんな嘘も、欺瞞も、洗練された半端な真実さえも認めずに、ありのままの感情に訴えかける。...ほんとうの愛は無責任で、抑制不能で、反体制的で、臆病さを冷笑する。
(翻訳は筆者による。原典以下)
http://www.crimethinc.com/library/english/join.html

労働力の再生産作業の領域まで日々の労働が纏わりついてくる、非物質的労働が社会的に主流であるという現状を問いただし、そこに亀裂を走らせる具体的な戦術を日々「いま・ここ」で、実践していくのが、大切。

恋に落ちるということは革命的契機であり、愛は、資本主義体制の内側から亀裂を走らせる為に必要不可欠な逃走線を刻印する、肯定的な生の力そのものである。

2007年1月31日水曜日

the perpetual war

グローバル経済下の戦争は、空間を超えている。
領土を越え、テロリズムとの戦いは世界中隅々にまで偏在している。
ヴェトナム戦争で泥沼に陥ったアメリカが苦肉の策で編み出した、
テクノロジーを駆使した「クリーン」な戦争。
いかにアメリカ軍の戦死者を最小限に抑え、敵の死体を最大限にするか。
結果、死の恐怖の反作用として生まれた、自爆テロ。

いままさに、いつでも、どこでも、だれにでも、起こりうる、死。
テロリズムという見えない「敵」との戦い。
それは戦争を日常に引きずり込む。
「敵」の不在=「敵」の偏在。
いつでも、どこでも、だれにでも、いままさに、死が起こりえるという可能性/恐怖。
恒常的な戦争状態を今あたしたちは、生きている。

『マルチチュード』でネグリ/ハードが言うように、
「隠喩としての戦争」が蔓延っている。
見えない敵との戦い。テロリズムとの戦いであると同時に、
「勝ち負け」に支配される、グローバル経済下の競争原理。
ゲームに勝つことができれば更なる富の蓄積があるはず。
その前提の下に、ゼロサムゲームが激しく繰り広げられる。
「見えない競争相手」に勝てば、富を享受できるはず。
結果、勝つ為に「頑張らなければ」いけないimperativeが社会野を覆い尽くす。

半ば永続化された競争と、恒常化された戦争は
有効需要の生産に裏打ちされ、軍需産業と国家の癒着に寄与する。
もうそろそろ、限界でしょう。死の欲動は飽和状態。
死ではなく、生の拡充を、あたしは願ってやみません。

サラリー女

前近代的な封建制が色濃く残る地方都市の中小企業と契約を交わし、
毎月決まったお給金をもらい、労働力を提供しています。
あたしはいわゆるサラリー労働者です。

役職やキャリアで構成される組織はヒエラルキーを形成し、
上下関係を重んじることが徳とされる。
垂直的な関係性に支配された、男根主義が蔓延る、ピラミッド型組織。

官僚が「女は子を生む機械である」と断言する日本国における、
男根的組織の中の、サラリー女の生き難さ。
男の論理に身を摺り寄せて労働する、その非合理性に、辟易。

むかし女は、賃金労働から周縁化されていた。
賃金労働の主役は男。
女の労働は歴史的に、男の労働力を再生産するものと位置づけられていた。
たとえば、家事、子育て、セックス。
「家」、「母性」そして「愛」イデオロギーが女の無賃金労働を合法化し、
何処にもいない「あるべき女」、ジェンダー・ロールの鋳型を捏造した。
しかし、資本はさらなる蓄積の為の労働力の多大なインプットを要請し、
家に閉じ込められていた「あるべき女」は、安い労働力として動員されていった。

近代的国家の建前=「性別」は仕事に影響してはならない。
子産みマシンと子産ませマシンが出会う場である賃金労働空間で!

封建的サラリー労働では、上下関係は実際の業務以上に重要だったりする。
「上」を立てることのくだらなさ。ヘーゲル的な、主人と奴隷の弁証法。
主人は奴隷に主人として扱われて初めて、主人となる。
部下が上司が行使する権力を実感させてあげて初めて、上司は権力を持つ。

あたしは立たせたいと欲望する対象しか、勃たせてあげない。
so why don't you stay away from me 'cause I know you just wanna get hard.

2007年1月24日水曜日

inside out/outside in?

他者、(或いは他者性)の無さに辟易する。
ありもしない内面を吐露することによってカタルシスを得る。
エディプス三角形の中の悲劇は、外から見ると余りにも滑稽。

同じルール=言語を共有している。
あたしとあなたは、同じ言語を共有している。
故に、あたしとあなたは同じルールを共有している。
「共同幻想」の三段論法。
自分と「あなた」は一体である。 形成される、甘えの空間。 イマジナリ。

あたしとあなたの間には、絶対的な差異が、ある。

其れだけ、認めて。