2007年11月30日金曜日

トウソウ本能

今日も時間に区切られ、等分に均質化され平均化された労働力商品としての諸力―身体的であり精神的なキャパシティ―を賃金と交換するサラリー女的日常を過ごしております。そして身体即精神的キャパシティーの商品化を前提に成り立つ、この高度に発展された資本主義社会に、亀裂を走らせる引っかき瑕を内側から、逃走線として刻印し続けていくことを常に、欲望しております。抽象的かもしれないけれど、昔の人々が描いていた「来たるべき」あまい夢のような革命ではなく、いま、ここで、もうひとつの世界を想像し、そして創造していくことを切実に欲している。

例えば:
抗議運動、ワークショップへの参加、労働の(プチ)サボタージュ、従順な労働者=消費者であるものだけが享受できる「自由」を切り売りする、歪められた民主主義社会における「一票」である消費へのサボタージュ、あるいは多国籍企業批判としての非購買行為(搾取工場製品、いわゆる大量生産「ブランド」商品、地球温暖化を加速化させ人々のスペースであるストリートを暴力的に占拠する車)、ブルジョアイデオロギーに塗り固められたコンヴェンショナルな関係―性差を問わず―へ常に疑問を抱き、あらたな他者との関係性を模索し構築していくこと。

何よりも重要なのは、考え続け、考え抜くこと。
ミシェル・フーコーの云う権力のテクノロジーは網の目のように張り巡らされ、思考停止に陥った主体が跳梁跋扈し、資本主義的日常という「自然」を絶え間なく生産/再生産する。さまざまなinstitutes―学校、職場、法、警察、そして大型ショッピングモール?!―を通じて、ネオリベイデオロギーは浸透し、ハイパー消費主義は人々の思考停止を促す麻酔のような刹那的快楽を提供し続ける。あたかもオルタナティヴなんて存在しないかのように、メディアは巧妙に造られた幻想を流布し続け、世論/世間という神話的共同幻想を構築する。この権力のテクノロジーが張り巡らされた日常という、資本の無謀なドライヴによって形成され、暴力的に汚染された「自然」を生きることは、進化と順応のパラドックスを生む。汚染された空気を吸い続けることによって、その毒に耐え切れなかったはずの肺はいつしか進化し、生命活動を存続させることが可能になるかのように、権力の暴力はまるで大昔から空気中に偏在しているかのように、自然なものとして、汚染された日常を生産/再生産し続ける。

いまここで必要なのは、本能に従うこと。植民地化された身体を脱領土化し、からだが欲するまましなやかに巧妙に仕組まれた権力の網目から逃走し、隙間から流れ出す新鮮な空気を享受するために闘争していくこと。

ヒポコンデリーの沼に沈んでいる暇はない。
自らのトウソウ本能のままに、逃走/闘争せよ。