2007年2月12日月曜日

home is where heart is

というBlazeの曲が大好きで、クラブでかかるとあたしは熱狂してしまう。

home is where heart is...there is no place I'd rather be...

透明な歌声と繊細なピアノのメロディ、そして内臓に響く重いリズム。
何といっても、詩が最高。

「帰ることの出来る場所=home」は、「いつでも帰ることができる」安心の空間。
こころが在るところに、お家があります。建築物としての目に見えるお家ではなく。
あたしが出会った大切な人たちは、あたしのこころの中に住んでいる。

もう二度と会うことがないかもしれないけれど、
いつか、どこかで、ひょんなきっかけでまたばったり巡り合うかもしれない。
もしかすると、そのときまで、左様なら。
そのときは、まるで昨日会ったばかりかのように、笑いながら語りつくしましょ。

トクヴィル

『アメリカのデモクラシー』より。

平等は二つの道に通じる。
一つは人々を独立心旺盛にし、無政府へと向かわしめる道。
もう一つは、ゆっくりと知らず知らずのうちに隷属へと向かう道。

後者は形骸化された民主主義の名の下に進む、ファシズム。
「なぜ人々は自己の抑圧を愛するのだ?」ライヒの言葉。
権力への服従を、自ら望む人々。
自分で考えて動くより、何となく動かされるほうが、ラクなのかしら?
権力に?メディアに?世論に?
それとも、権力のテクノロジーが日常生活の隅々にまで浸透し、
「自ら思考すること」を放棄し、思考不可能な主体が形成された結果なのかしら。

「この生活が維持できるのなら、何が起ころうが私には関係ない」
ボーナスでフラットスクリーンテレビも買えたし。
このあいだの選挙では若手に一票入れたし。
地球温暖化に憂慮して、冷蔵庫も新しく買い換えたし。
新しく始まったドラマは面白くなってきて、職場仲間との会話も弾むし。
些細な悩みや葛藤はあるけれど、カラオケでストレス発散するから大丈夫。
そういえば、自衛隊を総括する組織が「省」になったらしいけれど、
「美しい国」になるためには、きっと必要不可欠な国家的手段なのだわ。
そんなことよりも、近頃学校に行きたがらない息子が心配だわ。
いじめを受けている様子はないけれど、主人に相談したほうがいいわね。
平穏な、いつもと変わらない日常をぐるぐると廻らせる為には、
「...何が起ころうが私には関係ない」
この生活が維持できている限りは。

地球が気候の危機に直面して、人類の存亡が絶望的な現状。
生活維持どころか生命維持さえも、難しい。
そんな中、思考放棄している場合じゃ、ないんじゃないの?

2007年2月9日金曜日

days of war/nights of love

「量」が「質」の変容をもたらす。
社会的に主流な労働形態が社会的に主流な超自我を形成する。

たとえば、工場労働者。
時間に区切られた機械的労働は、労働者の日常生活を機械的に区切り、
労働者に「時間」の概念を植え付けた。
チャップリンの『モダンタイムス』に描かれているように、「労働時間」内は、いかなるサボりも許されない-ベルトコンベアラインを離れ、トイレで一服点けるチャップリンを、壁一面に巨大に映し出された「資本家」が怒鳴りつける。「労働時間内」は工場という巨大な機械の「生産性と能率性」を高めることが余儀なくされ、常に監視されている。

たとえば、現代における非物質的労働者。
情動、コミュニケーション、サービス、知識など、物質的な生産とともに、非物質的な労働が伴う、現代における主流な労働形態。グローバル経済化によって要請される、移民、非正規労働者、派遣、(所謂)フリーターなどの、フレキシブルな労働者にとって、時間や空間的拘束(労働時間や労働する場所-たとえば工場)は必要とされてはいない。
必要とされているのは、フレキシビリティとクオリティ。いかに、柔軟的に日々刻々と変わる労働形態に対応できるか、そしていかに質の高いサービス、情動、コミュニケーション、知識を商品として提供できるか。言葉を変えれば、いかに自己をフレキシブルな、質の高い労働力商品として市場に投入するか、ということである。

自己をいかに質の高い労働力商品として売るか。買い手の要望はさまざまである。多様であるが故、労働力商品市場の競争を勝ち抜く為には、情動やコミュニケーション、知識という自己のメンタルキャパシティのスキルアップを高めることが、肝心である。ここで労働時間は曖昧になってくる。なぜなら労働者は、自己を労働力商品とさせるために、非物質的労働の質を高める為の再生産作業を行わなければならないからである。そしてここで、「資本家」の「監視の目」は、労働者自身に内面化される。労働時間外であろうとも、非物質的労働に従事するが故、自己を常にスキルアップさせていかなければならない。単調な機械労働ではなく、情動、コミュニケーション、サービス、知識の質の高さが要求される労働条件ゆえに、労働時間外である、本来労働者にとって自由な時間さえも、非物質的労働の再生産作業に費やされる。

と、枕が長くなってしまった。

ポイントは、現代において非物質的労働が主流であるがゆえ、労働現場を離れた場所で、労働力の再生産を行っているつもりでも、いつのまにか「労働」が入ってくる。頭を使う労働、非物質的労働は知識やコミュニケーション、人の情動と深く関わっているが故に、労働時間の境目が曖昧になり、労働力の再生産作業さえも、労働の一環として組み込まれるようになった。

crimethinkのdays of war/nights of loveは、所謂「商業化された愛: commercialized love」を痛切に批判している。"Love as a subversive force to demolish the established order"

反抗に加担せよ:恋に落ちよ。恋に落ちるということは、今日における退屈で、社会的に拘束され文化的に窮屈な、人間的に無意味な世界において、究極の革命的行為である。...この意味において愛は破壊的だ、なぜならそれは我々の近代的生活における確立された秩序に脅威をもたらすからである。一日の労働の生産性や社会化されたエチケットという退屈な儀式は、そこに惰性や慣習よりももっと重要な力が彼を突き動かすが故に、恋に落ちた人間にとっては意味を成さない。...愛は、我々の政治システムに脅威をもたらす...我々の社会自体に脅威をもたらす。情熱的な愛はブルジョワジーに無視され、そして恐れられる。なぜならそれは彼らが切望する見せかけの安定にとって大きな脅威となるからだ。愛はどんな嘘も、欺瞞も、洗練された半端な真実さえも認めずに、ありのままの感情に訴えかける。...ほんとうの愛は無責任で、抑制不能で、反体制的で、臆病さを冷笑する。
(翻訳は筆者による。原典以下)
http://www.crimethinc.com/library/english/join.html

労働力の再生産作業の領域まで日々の労働が纏わりついてくる、非物質的労働が社会的に主流であるという現状を問いただし、そこに亀裂を走らせる具体的な戦術を日々「いま・ここ」で、実践していくのが、大切。

恋に落ちるということは革命的契機であり、愛は、資本主義体制の内側から亀裂を走らせる為に必要不可欠な逃走線を刻印する、肯定的な生の力そのものである。