2008年6月27日金曜日

non-sensical monologue

あたしが善く思っている人々が最近、悩んだり苦しんだりしている。
直接会うことのできる人々、間接的に会うことのできる人々、そして物理的に会うことができない人々。

あたしはいてもたってもいられなくて、しかしながらあたしはそれらの人々の親族縁者でもなく、友人というにはお互いの歴史やデータが欠けているし、能動的にコンタクトを取ることが難しい現状故に、具体的な介入策を打ち出すことはおろか、相手が吐露する言葉達を真摯な態度で聞き続けることしかできやしない。逆にそんな関係だから、しがらみも何も無く、こころの赴くままに鬱屈した心的現実を言語化できるのかもしれないけれど。

何の具体的な解決にはなりやしないけれど、言葉にすることでこころにかかる重力がすこしでも軽くなって、悩みを軽やかに撥ね付けるきっかけになれればいいな。と思う反面、因習的にカテゴライズされた関係性の枠組み内で定められる、社会的規範/コードによって予定調和な他者との距離感に未だ縛られている自分と出会う。あまり近くなりすぎてはいけない、とinhibitionが働いてしまうのは、多分、油断をすれば次の瞬間、社会的規範/コードからいとも簡単に逸脱してゆく自分を良く知っているから。

うむ、守りに入っている自分に気がつく。まあI'll see what's gonna happen next...

2008年6月8日日曜日

エゴはすでに、涙まみれ

辻潤的スチルネルエゴはまるで、アルルの燦々と輝く太陽の下で描いたゴッホの絵にどしゃ降りのつめたい雨が降ったかのよう。あざやかな色彩は歪みやがて溶け、涙の波に攪拌され決壊し、限界破裂寸前故に流動的な、アイデンティティと呼ぼうには余りにも胡乱な状態だから故、男根主義的近代社会で形成されざるを得なかったあたしの括弧つきフロイド的自我は翻弄され続けているけども、確固たる自我なんて存在しようがなくて、あたしにだけ囁いてくれる括弧付きの甘い言葉を執拗に耳元で反復しながら昨夜あなたはあたしをどこまでもしつこく愛してくれたけど、眼が覚めたあたしが白く発光する朝の光のなかであなたの何を思い出すかといったら、あなたが昨夜口移しで食べさせてくれたあのドライフィグのねっとりとした蟲惑的な甘さだけで、でもしっかりとめくるめく感覚の記憶はあたしの身体に刻印されたままだしフィグのグロテスクな断面は網膜の裏にしっかりと焼きついていて真新しい朝のなかイメージは記憶として白々しく光るシーツに投影されるけれど、

目覚めたあたしのそばにあなたは、いない。

エコはもう油まみれ

原油価格が高騰している。一バレル=140円。原油自体がないわけではないのに。

とある国の偉い人の発言だとか、とある国の泥沼化した戦争による需要の逼迫さだとか、いろいろな要因が絡み合って交換価値が急激につりあがったわけだけれど、各国でデモが頻発するのは当たり前。
第三次オイルショックなんて言われてしまえば、消費者は集団ヒステリアに陥る。買いだめに走る消費者はパラノイックに購買するわけで、さらなる需要をもたらすから、短期的又は恒常的に原油の価値を高めることが可能になる。

モノとカネの即物的・即時的交換による実質経済の規模に比べ、ヘッジかけたり先物したり、様々な投機的操作:speculationによって変動し続ける仮想資本(fictitious capitalってこの日本語でアッテマスカ?)が数倍に及ぶグローバルなマーケット。投機操作や資金の投入でモノの価値が一夜にして変わり、一夜にして億万長者または生きるか死ぬかの困窮に落とし込まれる人々がいる。二元論的に断罪するのは非常にシンプルで解りやすいけれど、根底にある問題を掴みとることが必要。

そうよいまや世界はエコンスーマリズム:Eco/nsumerismの需要が右肩上がりで高まっているじゃない。オイルに焚きつけられたペトロダラーを駆使しての経済発展が劣悪な地球環境を齎し、生命が存亡の危機にさらされている今ですよ。経済発展も、生きている人がいなくては、発展できる場としての地球が無ければ、実現できないんですもの。日本国ではデザイン性に富んだエコ袋やマイ箸袋は飛ぶように売れているらしいじゃない。「エコをしっているから、している」という公共的広告に操作され、「地球によいこと」をできることからしている従順な消費者にとって、それらの商品は気軽に自分の自意識を満たす格好の対象になるでしょうさ。移動には新しく購入したハイブリットマイカーを使い、家の電球は消費電力が少ないLEDに総換え、休暇の旅行ではカーボンオフセット制度を取り入れた交通機関ならびに宿泊施設を利用。少し単価が高くたって仕方が無い、なぜなら「地球に良いこと」をしてるのだからあたしたちって、エコ意識強い素敵な市民でしょ。こうしてエコンスーマリズム・マーケティング戦略並びにCSR力強化で付加価値を高めた企業は、企業の信頼度を向上させる「地球によいこと」をしながら、富の蓄積を実現できるという、うはうはな決算期を迎えることができるのでしょうさ。

サミットあるしテーマは環境問題だし、ホスト国である日本はこの原油高騰について大したこと無いもんねー、だってうちはエコな国だし発電は原油に(それほど)頼ってないし技術大国だからどんなことでもできるし、昔オイルショックで国内消費者大混乱という歴史があるから、それから活かせる経験と実績はきちんと蓄積してるもんね、と国際世界に向けて思わず強がってしまった模様。

自然資源を搾取=利用することによって利益を生産しつづけ/てきた資本の無謀な欲望は、その発展の限界=limitを想定し、あらたなシステムを生産した。eco-capitalism:エコ資本主義、キャップアンドトレードなど、地球温暖化ガス排出権の売買に色濃く現れる、いわゆる先進国と経済発展が芳しくない国の間に立ち現れる、不均衡な関係。いわゆる先進国の過激な資本のドライブによって生産される二酸化酸素(工場、農場、消費者のライフスタイル-車など)を、経済発展がままならぬ第3諸国の国々に買ってもらい、その代償として支援をしようじゃないか。ルールはこちらが決めるから、支援が欲しかったら従え、というユニラテラルなシステム。

根源は、何処。地球に良いことだって、市場のお金のやり取りだって、結局ルールを作った人間が勝利するってことじゃない、富の蓄積の名において。

ねえ、フリードマンさん、自由経済なんてくそくらえよ。

2008年6月4日水曜日

吐露

ああもういやになってしまいそう、この手緩さに懐柔されて瑣末な日常としての関係性を、維持・発展させるためにどれだけ自分が身を粉にして(しかも半ば脊髄反射的に)、同じ言語を有する=同じルールを有する、であろうという短絡的な共同幻想を打ち立てる集団の一員として、あたかも満たされているかのように振舞う自分に。