2009年1月31日土曜日

探し物がございまして、

歩いて歩いて探したのだけれど見当たらなかったので、
ジェット気流の力を借りて久しぶりに遠征してまいりました。

文明の利器に乗せられて、天候調査中で離陸を見合わせている機内から見る、楕円型に切り取られた空は真っ白の、横殴りの猛吹雪だというのに、客室乗務員はまっさらな笑顔で、酸素マスクの説明を実演をもって演出する。感情労働者に課せられた危機管理はあまりにもシュールリアリスティック。

でもよいのだ。雲の下がいくら猛吹雪であってもどしゃぶりの雨であっても、
雲のうえはいつも、晴れているから、あたしはあなたと会うことができる。
on the planeで発見してしまった、plane of immanence。

蜂蜜を注ぎこんだかのように、太陽の光が雲間をとろりとした金色に染め上げている。 (だって雲のうえはいつでも晴れているもの)。雲の上で太陽は、誰にも邪魔されること無く其の儘に、ひかりを雲の波の上に注ぎ続けている。 時は夕刻、もしくは朝。 空の上から世界を、鳥の目線で地上を見る。雲間を蜂蜜色の染め空の青さを際立たせる熱く甘い陽光は、海を越え山を越え、眼下に広がる海岸線の繊細な曲線美を明らかにする。瞬間触発される、エキサイトメントの香りは芳しい。

エキサイトメントの香り、
ねっとりと肌に絡みつく熱帯夜の湿気の中で、野生動物の首筋の香りと、どこからともなく漂う清涼な百合の花芯が震え匂い立つ。今も鼻腔の奥に甦る静謐な香りと、身体の奥をじわりと突き抜ける甘い感覚が、混じっていく。匂いが視覚を、視覚が匂いをそして記憶を。鼻腔の奥に呼び起こされるかぐわしさと身体の芯を突き抜けるリズムの余韻が、音楽を、身体中の細胞に波のように引き起し奏でる。雲の波間に溶けていく、断続的に降り注ぐ光のスペクトラムの鮮やかなリズムはやさしく甘く、細胞にしっとりと染みこんでいく。エキサイトメントの香りは理屈ぬきに感覚的刺激とともに客観的に記憶に残るから、記憶して記録したい。いつでも何処でもあの甘美なる感覚を現在に召喚できるように。かぐわしいあの人の香りをふと、記憶の中に鼻腔の奥に思い出す。未来過去今歴史的時空的リニアリティは吹き飛ぶ。鳥のように高らかに、現在を歌う。

エキサイトメントの香りにやられて、
未来過去今歴史的時空的リニアリティが飛んでしまって、
雲の波間に夢見ごこちで漂っていたら
現在の探し物を忘れてしまいました。

2009年1月12日月曜日

他者の不在について

他者とはなにか。

と考えるとあたしは、柄谷行人『探求I』の冒頭の一説を思い出す。

     われわれの言葉を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聴いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言葉では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない‥‥(「哲学探究」20)

言葉はルールやロジックによって成り立っており、「われわれの」言語を理解する為にはそれらにまつわる理論性や哲学を理解する必要がある。「われわれの」言語のルールやロジックが通用しない人々-「たとえば外国人」―は、理論・哲学を無効化し、「われわれの」言語を理解する「われわれ」の確固たる自信、あるいは’確実性’を失わせる、他者である。

「われわれ」とは誰か?
同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想を持つある集団であろうか。 たとえば日本語を母国語として、日本国憲法に定められた法というルールを守り、同じメディアが流す情報を共有し、同じ多国籍企業が営むショッピングモールで消費するから、「われわれ」は「われわれ」としての確実性を保ち共有し得るのか。そして共有された曖昧で胡乱な確実性のもとに「わたし」ではなく「われわれ」として存在できるかのような手ぬるい現実を享受できるのか。

同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想があるから、
「われわれ」の発話は他者にかならず伝わると、ナイーブに信じきることができるのか。

この言葉は伝わらないかもしれない、
しかし伝えたい、伝わればいい、
伝わらなければ、完全な暗渠。絶望。
だから命がけで、伝えたい。

他者、を想定し発話し、自己の発言に責任をとることが、
倫理的な他者との関係性の構築への第一歩。

ナルキッソスの泉に映し出された増殖し肥大する自己イメージの鏡地獄から抜け出し、永久運動を続けるエディパル三角運動の螺旋を断ち切って、他者に自己を投影し続け、閉じられたモノローグだけが虚しく続く、なんて、鬱。
他者がいるのに、存在しない。
他者を想定してコミュニケートし得ないなんて、酷く非倫理的。

でもね、

所謂主体性と呼ばれるものは社会的に浮かび上がってくるわけで、自分以外の人間・動物・植物・商品‥様々な事象との関係のウェッブによって 織り成される、関係性の変化によって常に変動していくダイナミズムそのものだ。(故に確固たるアイデンティティという代物は限定された言説で括弧付きにしか語りえない)。

例えばいい香りの風が吹けばがちがちだった身体は緩み、少しだけやさしくなれて、さっきまで大嫌いだった人をいとおしく思えるようになったり、逆に風が吹けば持病の痛風が狂おしいまでに痛み始めて(あたしは痛風もちではないけれど)、さっきまで大好きだった人につらく当たっちゃったり。フィジカルなコンディションによって、周りの事象の変化によって、人は刻一刻と変わりゆく。

毎瞬間毎瞬間、同じ自分に出会うことがない。
外延に存在しているかのように見える他者、が自分のなかにたくさんいる。

I love you, but because inexplicably I love you in you something more than you- the object petit a- I mutilate you (Lacan, Jacques, The Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis, p263, 1998)

2009年あけまして

からというもの、耳が脳がクラシックしか受け付けなくなっておりますが、
ことしもよろしくお願いいたします。

2008年後期頑張って様々なジャンルにチャレンジしてみたのですが、
やはり自分の脳が心地よいと感じる音しか耳には落とし込まれないようで、
自分勝手な淘汰?の末新年耳に優しかったのはクラッシックだったわけで、
やはりバルトークは秀逸、と感じております。

先日友人と話をしていて、ミシマユキオの話になりました。
「あたし、音楽が聴こえないんです」
という赤いコートをきた女と精神分析家の小説なのだけれど、
既存の解釈をたどれば、音楽はリビドーに回収されていくけれども、
(例えば音楽とオルガズム、兄との近親相姦的欲求など、鋏、の象徴)
フロイドシアターに必要不可欠な要素が立ち現れてくるから、
ミシマさんの『音楽』の解釈においては、あたしがフロイドに回収されていただけかも。
ううみゅ、もっと欲望に肯定的な解釈だってできたはず。既存の何某に囚われずに。
ユング的に読めば音楽、は集合的無意識からのメッセージじゃ。
2009年にもう一回読み直して、↑を敷衍しよう。
http://jp.youtube.com/watch?v=UHZt6ITdSto