2009年1月12日月曜日

他者の不在について

他者とはなにか。

と考えるとあたしは、柄谷行人『探求I』の冒頭の一説を思い出す。

     われわれの言葉を理解しない者、たとえば外国人は、誰かが「石版をもってこい!」という命令を下すのをたびたび聴いたとしても、この音声系列全体が一語であって、自分の言葉では何か「建材」といった語に相当するらしい、と考えるかもしれない‥‥(「哲学探究」20)

言葉はルールやロジックによって成り立っており、「われわれの」言語を理解する為にはそれらにまつわる理論性や哲学を理解する必要がある。「われわれの」言語のルールやロジックが通用しない人々-「たとえば外国人」―は、理論・哲学を無効化し、「われわれの」言語を理解する「われわれ」の確固たる自信、あるいは’確実性’を失わせる、他者である。

「われわれ」とは誰か?
同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想を持つある集団であろうか。 たとえば日本語を母国語として、日本国憲法に定められた法というルールを守り、同じメディアが流す情報を共有し、同じ多国籍企業が営むショッピングモールで消費するから、「われわれ」は「われわれ」としての確実性を保ち共有し得るのか。そして共有された曖昧で胡乱な確実性のもとに「わたし」ではなく「われわれ」として存在できるかのような手ぬるい現実を享受できるのか。

同じルール、同じ言語、同じ現実を共有しているという幻想があるから、
「われわれ」の発話は他者にかならず伝わると、ナイーブに信じきることができるのか。

この言葉は伝わらないかもしれない、
しかし伝えたい、伝わればいい、
伝わらなければ、完全な暗渠。絶望。
だから命がけで、伝えたい。

他者、を想定し発話し、自己の発言に責任をとることが、
倫理的な他者との関係性の構築への第一歩。

ナルキッソスの泉に映し出された増殖し肥大する自己イメージの鏡地獄から抜け出し、永久運動を続けるエディパル三角運動の螺旋を断ち切って、他者に自己を投影し続け、閉じられたモノローグだけが虚しく続く、なんて、鬱。
他者がいるのに、存在しない。
他者を想定してコミュニケートし得ないなんて、酷く非倫理的。

でもね、

所謂主体性と呼ばれるものは社会的に浮かび上がってくるわけで、自分以外の人間・動物・植物・商品‥様々な事象との関係のウェッブによって 織り成される、関係性の変化によって常に変動していくダイナミズムそのものだ。(故に確固たるアイデンティティという代物は限定された言説で括弧付きにしか語りえない)。

例えばいい香りの風が吹けばがちがちだった身体は緩み、少しだけやさしくなれて、さっきまで大嫌いだった人をいとおしく思えるようになったり、逆に風が吹けば持病の痛風が狂おしいまでに痛み始めて(あたしは痛風もちではないけれど)、さっきまで大好きだった人につらく当たっちゃったり。フィジカルなコンディションによって、周りの事象の変化によって、人は刻一刻と変わりゆく。

毎瞬間毎瞬間、同じ自分に出会うことがない。
外延に存在しているかのように見える他者、が自分のなかにたくさんいる。

I love you, but because inexplicably I love you in you something more than you- the object petit a- I mutilate you (Lacan, Jacques, The Four Fundamental Concepts of Psychoanalysis, p263, 1998)

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

ウェイキング・ライフという映画を観たことありますか?

noe さんのコメント...

観たことないです。
School of Rockの監督さんでしたっけ?
youtubeで予告観たら面白そうでした。
近日中に借りてきます☆
地方都市のTSUTAYAにあるかどうかが唯一の懸案‥

匿名 さんのコメント...

そうです☆
きっと面白く観れます(^^)
TUTAYAにあれば良いですね!
感想聞かせて欲しいです♪